2022年12月 1日 「サトウマサミ の問わず語り」 を読む >> 目次に もどる


 「サトウマサミ の問わず語り」 と 前回の 「さらなる学習のために」 に関して、私は執筆している途上、本書に収録することを迷いました。そして、本書から外してもいいとも思いました。ただ、編集者と出版社が収録したほうがいいと助言していただいたので、収録した次第です。収録することを迷った理由は、私が 「舞台 ウラ」 を晒すのを良しとしない気持ちが強かったからです。私は楽屋話をするのが好きじゃない、楽屋話は しょせん 楽屋話です、正式な舞台に立つまでの過程など過程に過ぎず、問われるべきは正式な舞台としての 「作品 (完成品)」 でしょう。

 正確に言えば、最終形の 「作品」 も完成品ではない、次に進む道の一里塚でしかない。私は、そう思って過去の拙著を執筆してきました── T字形 ER 法が モデル TM へと変貌していく過程 (「黒本」 → 「論考」 → 「赤本」 → 「いざない」) を私は本書で初めて述べました (本書第 3章の 「サトウマサミ の問わず語り」)。「論考」 と 「いざない」 を出版したとき、世間では ウケ が悪かった。ウケ が悪いだろうということは、当時、執筆していて私自身が思っていましたが、これらの 2冊は どうしても書かなければならなかった著作です。ウケ が悪いというだけならば、私は当初から私自身が確信していたことであって世評を無視できるのですが、TM を推してくれている人たちのあいだでも、モデル の基礎として 「数学 (数学基礎論、現代集合論)」 を置くのはいかがなものかという的外れな意見を私は聞き及んで苦笑していました。そのために、数学嫌いな 「文学青年」 が どうして 「数学 (数学基礎論)」 を学習しなければならなかったのかを述べたいと思って、楽屋話を綴るに至った次第です。前述しましたが、私は楽屋話を披露することを良しとしないのですが、今回、「サトウマサミ の問わず語り」 を綴って良かったと思っています。そして、「問わず語り」 を いったん綴るとなれば、私は正直に──話の中身を盛ることをしないで──綴るよう心掛けました。

 さて、第 1章の 「問わず語り」では、「『数学嫌い』が数学基礎論を学習するようになった ワケ」 を綴っています。その ワケ を一言でいえば、「仕事に必要だったから」 ということに尽きます。たぶん、どの仕事でもそうだと思うのですが、仕事で或る知識が必要不可欠であれば、その知識を学習せざるを得ないでしょう。私の仕事でいえば、コッド 関係 モデル を学ぶことは必須です。でも、数学嫌いな 「文学青年」 が初めて コッド 論文を読んでも ちんぷんかんぷん でした。というのは、コッド 論文を読むには、数学知識が必要だからです。そのために、私は数学を学ぼうと思って、数学基礎講座 (全10巻ほど) を買ってきて──古本屋で入手したのですが、値段は 9万円くらいしました──、全巻読めば数学知識が学べるだろうと思っていました。数学の正規の学習をしていない 「文学青年」 は、数学の体系など 全然 知らないので、数学の体系に沿って記述された書物を読めば数学を学べるなどという無謀な愚見を抱いて、ただ闇雲に数学の書物を読もうとしていたのです。第 1巻は、私の記憶が曖昧なのですが、たぶん、微分積分だったと記憶しています。そして、第 1巻の途中で、学習は挫折してしまいました (コッド 論文を読むために、微分積分は有用ではない www)。

 数学の学習を挫折しましたが、数学を知らなければ、コッド 論文を読むことができない。なんとか数学を学習しようと足掻いて、本書では綴らなかったのですが、他の出版社の数学基礎講座 シリーズ を買ってきて読み始めたのですが、再び挫折しました。第 1巻も読み通すことができないなんて、自分は なんて頭が悪いのだと落ちこみました。幸い、当時、ウィトゲンシュタイン の 「数学の哲学」 を読んでいて、ゲーデル の名前を知って、ゲーデル を学習すればいいと思うようになったのです。そこで、「不完全定理」 の論文を入手して読んでみたのですが、数学を学習してこなかった 「文学青年」 には当然ながら ちんぷんかんぷん でした。ただ、そういう試行錯誤をくり返しているなかで、集合論 (いわゆる 「数学基礎論」) を学べばいいということに次第に気づきはじめました。そこで、集合論と記号論理学の書物 (入門書) を 数冊 買ってきて読み始めました。そして、今度は挫折しないで読み通すことができました。それ以来、「数学基礎論」 の学習は軌道に乗って今まで学習を続けています。「数学基礎論」 の学習途上で、集合・関数・モデル・証明という数学の基礎概念・技術を知るには、「数学基礎論」 を学べばいいということを次第にわかってきました──すなわち、「論理」 を学ぶということは、いわゆる 「数学基礎論」 を学ぶことだと初めて知ったのです。私は、すいぶんと遠回りをして、やっと数学 (「数学基礎論」) に辿り着きました。

 「数学基礎論」 を私は学習しているといっても、連続体仮説などの純粋に数学的な領域には興味がなかったので、私の学習は あくまで 「論理」 の 「基礎の基礎」 に限られています──たぶん、私は哲学的観点から数学基礎論を眺めているのでしょうね。そして、「数学基礎論」 について、私の学習を振り返ってみれば、「計算可能性」 ということに集中しているようです。つまり、アルゴリズム ということに私の興味が向けられているようです。

 いわゆる 「文系」 の学生が数学を学習するのであれば、先ず 「論理 (数学基礎論)」 (および、記号論理学) を学習することを勧めます。記号論理学 (形式論理学) は、たぶん、「数学基礎論」 のなかにふくまれると思うのですが、「記号論理学」 の書物として単独で出版されていることが多いので、先ずは それらの書物を読んで記号演算に慣れてください。記号演算に慣れることが先決です、記号演算に慣れていないと 「数学基礎論」 の書物を読むことができない。そして、なによりも、数学を学習するのは、「仕事で使う」 という理由が一番の推進力でしょう。趣味として数学を学習するのもいいのですが、「文系」 の人たちは趣味で数学の学習をはじめても たぶん長続きしないでしょう。数学の学習を継続できないのであれば、数学を学習しないで、他の学科を学習したほうがいい (私は、嫌味で言っているのではない)。モデル 論を本格的に学習しないのであれば、数学基礎論を学習しないほうがいい、戯れに恋はすまじ。世の中には、他にも学ぶべきことが多いのだから。 □

 




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