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To sweep a troublesome problem under the carpet. |
実務家 (practitioner) が恵まれている点は、膨大な「生の」材料 (事象) を、日々、扱うことができる、という点である。したがって、実務家 (practitioner) は「理論」を熟知していなければならない。なぜなら、精神は、それが対象とする仕事を、高所からコントロールしなければならないから。
エンジニアの良識とは、「事実」を立脚点にする点にある。たしかに、「事実」や「体験」に任せておけば、技術は、「現実」から遊離しない。エンジニアは、文章のなかで記述されている概念のなかに、「訳のわからない 戯言」がふくまれている、と思う傾向がつよい。
「事実」が1つの判断であるかぎり、事象を、どのようにして形式化するのか、という点は、エンジニアの価値観に委ねられる。しかし、形式化された構造が、1人のエンジニアの価値観を回避するためには、理論的な整合性がなければならない。理論的な整合性があれば、ほかの人たちも、合意することができる。
1人のエンジニアが、システムの「すべて」を熟知することはできないのであるから、1つのシステムを作るためには、それぞれの専門領域のエンジニアたちが集まってプロジェクトを編成することになる。プロジェクトでは、それぞれの専門領域は、理論的に整合的な (したがって、合意された) やりかたを前提にしているはずである。こういう やりかた をすれば、エンジニアに特有な自尊心が、自らの仕事ばかりに集中しないで、共同作業に注がれ、「協業」という喜びを味わうことができるはずである。 プロジェクトを管理するために、プロジェクトの管理技法を「制度化 (あるいは、標準化)」することは無駄とは言わないが、第一義ではないことは確かである。従来からも、プロジェクトは管理されてきた。従来のプロジェクト管理が成功しなかった理由は、プロジェクト管理の手続きが標準化されていなかったからではない。システムを作る技術が「整合的な理論を前提にした」技法ではないから、プロジェクトのなかで、それらの技術を集成しても、プロジェクトが成功しないのである。 プロジェクトの破綻は、プロジェクト管理が原因ではない。job-analysis や データ設計が「整合的ではない」から、プロジェクトが破綻しているのである。整合的な設計図がない、という点が問題点なのである。にもかかわらず、エンジニアの技術力が低下して、エンジニアが基本的な問題点を論点にできなくなって、ドキュメントの作成ばかりを論点にしているのは本末転倒である、と思う。 (2003年11月2日)
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