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Nightingales can sing their own songs best. |
広中平祐さん(数学者、フィールズ賞受賞)が、若い頃、岡潔さん(数学者)の講義を聴講なさったそうです。岡さんは、当時、整数論の領域で、世界的な評価を得られていらっしゃいました。岡さんは、講義のなかで、(「無明」ということに言及なさって)「数学の問題などは、(坐禅して)心を平静にすれば、解が見えてくる」とおっしゃたそうです。数学の「技術」を学びたかった広中さんは、その講義を聴いて、岡さんから「技術」を学ぶことができない、と思ったそうです。
広中さんが、(フィールズ賞受賞の対象になった)「複素多様体の特異点解消」に関して、数学学会で、中間報告なさったら、最前列に座って聞いていらした岡さんが、以下のようにおっしゃたそうです。
岡さんの助言を聞いた広中さんは、(心の内では、「なにを言ってやがる」と思ったそうですが--笑)「ありがとうございます」と返礼なさったそうです。そして、広中さんが、そののち、「特異点解消」の論文を完成なさったとき、岡さんのおっしゃたように、一般化した形としてソリューションが出た、とのことです。 学びの途上にいる人 (あるいは、なにかを具体的に完成しようとしている人) が体得しなければならないのは「技術」です。そして、一事を成した人 (あるいは、大きな業績を示して現役を退いた人) は、自らの人生を回顧して、「心得え」を語ろうとします。「心得え」を語る人が偉大であればあるほど、聴くほうの人は語られる「仕事を成すときのコツ」を信頼しますが、聴くほうには、それを実現すための「技術」がなければならないでしょうね。
「表現」は、的確な「技術」に裏打ちされていなければ、危うい。たとえば、ピアノの演奏では、的確な技術を体得していないで、ただただ、情感たっぷりと弾いても、感動を呼び起こすことはできないでしょうし、逆に、情感が先走った演奏には嫌悪感すら感じます。 我々の業界 (IT業界) では--あるいは、おそらく、どのような業界であれ--、「技術」の裏打ちがないくせに、意見を言い散らすことを「能書きを垂れる」という言いかたをして、軽蔑の対象になります。たとえば、新卒の人が、「コンピュータは経営に役立つことを目的としている」と言えば、先輩たちは苦笑するでしょう。なぜなら、それを実現するために、プロは技術を使うのだから。プロは、それを実現するために、具体的な手続き (how-to) を提示するのだから。
さて、life-cycle という言葉がありますが、「適時 (時節)」ということが大切でしょうね。
「技術」というのは、使われてはじめて「技術」になるのであって、プログラマはプログラムを作成することが仕事であるし、 SE は、事業を解析してシステムを設計することが仕事なので、プログラマが、どれほど、データベース設計論に関して豊富な知識を習得していても、プログラムを作成できなければ、エンジニアとして役に立たないし、 SE が、どれほど、事業戦略に関する知識を豊富に習得していても、システムを設計できなければ、エンジニアとして役に立たない。
ただ、難しい点は、一生、プログラマとして仕事ができるか、という点です。
コンピュータ業界を離れて再就職するときに ぶつかった壁が「即戦力」ということでした。
そして、僕は、とうとう、コンピュータ業界に復帰することになりました。コンピュータ業界にもどった僕は、再び、プログラマとなりましたが、すでに、「人間プログラム製造機」扱いに対して嫌気を感じていたので、なんとか、「次のステップ」に進みたいと思っていました。「次のステップ」に進むときには、「次のステップ」の準備をしていなければならないでしょうね。この時点で、さきほど述べた「むずかしい」点が出てくるようです。すなわち、プログラマはプログラマとしての「技術」が評価の対象になるのですが、( SE になるためには) SE の準備をしていなければならない。この匙加減が非常にむずかしい。 キャリアの人口構成から判断しても、プログラマと SE の比率が「1:1」の対応関係であることはあり得ない--ピラミッド構成にならなければ、組織の構成が成立しない。つまり、「プログラマから SE になる」というキャリア・パスは、プログラマの半数以上が辞めることを前提にしている。競争原理だといえば、それまでのことですが、、、。 ただ、論点になるのは、プログラマとして、「ほどほど」の実力だけれど、データベース設計論を「ほどほどに」知っている人のほうが、データベース設計論を知らないけれど腕の立つプログラマに比べて--第一級とは言っていない点に注意されたい、なぜなら、第一級のプログラマは、並の SE なんかよりも、データベース設計論を知っているから--、 SE になるチャンスが高い、という点です。
とすれば、「ほどほどの」プログラム作成技術と「ほどほどの」システム設計論を知っている人が SE になる「危険性が高い」。つまり、 SE という仕事が、中途半端になっている、ということです。「ほどほどの」プログラム作成技術と「ほどほどの」システム設計技術をもっている人が、プログラム作成技術に関して、並以上のプログラマと話しても、技術が及ばないけれど、いっぽうでは、「プログラマに比べて、システム設計技術を知っている」という的外れな感想を抱くでしょうし、システム設計技術に関して、並以上の SE と話しても、システム設計技術が及ばないのだけれど、「プログラムのしくみを知っている」とうそぶくでしょうね。
「制限された合理性 (与えられた環境のなかでの現実的なソリューション)」というのは、「ほどほどの」ソリューションという意味ではない。なぜなら、与えられた環境のなかで、認知できるかぎりの物事を把握する第一級の才覚がなければならないから。 英語には、「有能」を記述する代表的な形容詞として「able」と「capable」がありますが、「able」は、「任に堪えうる能力」であり、「capable」は「(潜在能力を示唆する) 臨機応変な才覚」を意味するようです--潜在能力は良いほうにも悪いほうにも適用できるので、capable には、悪い意味にも使うことができるようです (たとえば、昨今、報道されている企業犯罪のなかで、capable of forging official documents とか)。
プロであるなら、「able」は最低限の前提です。そして、第一級の「技術」を、たとえ、体得していても、「心得え」が疎かになれば、「訓練された無能」ということになるのでしょうね。
コンピュータ業界紙には、概念をまとめた多くのキーワードが飛び交っていますが、業界紙は、マーケットの動向を感知するための1つの材料にすぎない。もし、マスコミのなかで拾ったキーワードのいくつかが気になるのなら、しかるべき文献を読まなければ、詳細な情報を得ることができない。それらのキーワードを提示した原文を読まないで、様々な評釈の尾ひれを付け足すようなことには関与しないで、立脚点としている「技術」が、環境の変化 (あるいは、適用目的) に対応できているのかどうか、という点を、エンジニアとして、冷静に見極めるようにしてください。技術のなかのどこが論点になるのか、という点を見極めるには、「技術」は、当然ながら、的確な技術であって、「ザッとした」おおまかな技術の理解では対応できない、ということを忘れないでください。
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