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You're barking up the wrong tree. |
或る天才的な哲学者がいて、彼は、いままで、だれも作ったことのない美しい氷の
「論考」は、確実な端正な体系の中で、小気味よいリズムを打つように、
「探究」が辿り着いた「言語ゲームの規則準拠性」と、数学の規則準拠性の ウィトゲンシュタイン氏は、当時、数年を費やして、「数学の基礎 (集合論)」を研究しています--もっとも、数学の専門家から観れば、いくら天才的な哲学者でも、数学の1人のシロートにすぎないのですが、、、。ただ、数学に対して、ウィトゲンシュタイン氏が研究の対象にしていたのは、(数学を外側から観て、) 数学の「モノの見かた」です--数学の専門家としての「技術」を学習した訳ではないのです。 そして、「哲学探究」を著したウィトゲンシュタイン氏は、「哲学を葬り去った」最後の哲学者と言われています。ウィトゲンシュタイン氏が「哲学探究」のなかで提示した主題は、「蠅獲り壺 (哲学、形而上学) に陥った蠅を救う」ことでした。そのために、彼の哲学は、「治癒の哲学」とも言われています。 「哲学探究」が提示した世界を、ひとこと で言い表すことはできない。でも、ぜひとも、「哲学探究」を読んでください。「哲学探究」を、直接、読んで、哲学を葬り去ったと云われている哲学者が、論点にした対象を考えてください。「哲学探究」は、思想の歴史を変えた天才が綴った書物ですから、我々シロートが、一読して理解できるような書物ではない。読めば、悩むことになるでしょう--僕が、そうでした。おそらく、「哲学探究」の主題を理解するには、十数年を費やすことになるでしょう。 「哲学探究」の世界を観てしまうと、「認知」は「言葉」を除いたら成立しないことが理解できるでしょう。その「言葉」が、「人工言語 (たとえば、集合論)」であれば、「規則を作る」ことができますが、「自然言語」であれば、個人は、「私的に」規則に従うことはできない。 OOP が、アルゴリズム (人工言語) のなかで、クラスを考えることは正当です。ただし、そこで使われているクラス概念を、事業のなかで使われている情報 (自然言語) に対して転用するのは危険です。なぜなら、かならず、「合意された文法」という壁にぶつかるから。 T字形 ER手法は、事業のなかで使われている情報 (伝達として使われている言語) を対象にして、(伝達という行為のなかで成立している)「合意」された「意味の構造」を記述することを目的としています。
OOA のなかで、モデルを扱っている人たちが見落としている最大の点が、モデルの対象になっているのは、「自然言語」を使って伝達される情報である、という点です。もし、「自然言語」を回避しようとすれば、(「情報」を無視して) 「現実の世界」を観察しながら、「構造」を作らなければならない、ということになります。そうすれば、見事に、「論理哲学論考」が陥った罠に填ります(!)
窓のない部屋に入って、どうやって、部屋から抜け出そうと考えあぐんでいたら、
実は、モデルの論点など単純なことであって、「開かれていたドア」に気づいていない人たちが、「モデル遊び」をやっている、ということです。だから、事業のなかで、日常言語を使って仕事をしているエンドユーザは、「モデル遊び」などに参画はしない。システム・エンジニアの作ったモデルが使い物にならなけば、エンドユーザは、自らの仕事を守るために、自然言語を使ったインフォーマル・システムを作る、ということです。
エンドユーザの間で共有されている暗黙知のなかで、確実に形式化され伝達されているのが「(一定の報告形式に準拠して、自然言語を使って記述された) 情報」です。
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