▲ このウインドウを閉じる |
A bad workman quarrels with his tools. |
運 「旦那は、海外で生活していたのですか。」 僕が愛読している哲学書は、ウィトゲンシュタイン(Wittgenstein, L.)、パース(Peirce, C.S.)、スピノザ(Spinoza B.)、ライプニッツ(Leibniz G.W.)の著作です--それ以外の哲学者たちの代表作も、いくつか、読んでいます。ウィトゲンシュタインの著作は、座右書です。 僕が哲学書を読んでいると言えば、 SE たちは、おおかた、怪訝な顔をするし、ときには、「(嫌悪感を示すような) 嫌な」顔をすることもあります。おそらく、哲学書というのは、システム構築に対して、一切、関係のない「戯言 (たわごと)」集のように思われているのでしょうね。「或る意味では、」その考えかたは正しい、と思う。哲学に比べたら、数学のほうが、断然、システム構築に対して役立つ技術です。 僕は数学を専門にしていないので、数学の目的・意義を語るほどの知識がないのですが、少なくとも、ゲーデル(Godel, K.)の論文やコーエン(Cohen, P.J.)の論文を読むと、数学も哲学を除いて考えることはできないのではないか、と思っています。プラトン主義や反プラトン主義という言いかたもされていますし。 さて、哲学書は、システム構築に対して、「戯言集」なのかどうか、という点を考えてみましょう。たとえば、データベース設計においては、「モノと関係」の概念が論点になりますが、数学の手法を使って、1つのモデルとして提示されたのが関係モデルです。関係モデルは、第1階述語論理とセット概念を使っています。したがって、数学を知らなければ、関係モデルを理解することはできない。関係モデルは、正規形 (関係スキーマ) と代数演算 (リレーショナル代数演算) を、単純な技術として、提示することができるので、データベースを実地に作る SE にとっては、関係モデルの理論を理解しないでも、技術として、セット・アット・ア・タイム法を覚えれば、システムを作ることができる。したがって、哲学や数学を知らなくても、関係モデルを前提にして、データベースを設計することはできます。
いっぽう、関係モデルの前提となっている直積集合の考えかたは、選択公理という観点からも解釈できます。しかし、選択公理を使えば、とたんに、哲学に抵触します(!)
統語論としてのモデルが示している「意味の記述」と「意味論」との関係や、モデルが対象としているモノの「解釈」に対して、整合的な説明を与えなければ、モデルの適用が、モデルを使う個人の価値観を立脚点として、「恣意的」になってしまいます。
したがって、モデルそのものを作る人にとって、数学と哲学は、不可欠の教養なのです。ただし、モデルを使う人たちにとって、(モデルが「技術」として提示されていれば、) 数学も哲学も知らなくてもいいでしょうね。モデルを使う人たちは、(モデルの無矛盾性・完全性が証明されている、という前提に立って、) モデルを取り込んだシステムが、環境の制約された合理性のなかで、できるかぎりに、効果・効率を実現するようにしなければならない。 ただ、小生が悲しいと思っている点は、モデルを使う人たちが、昨今、「モデル遊び」に夢中になっているという現状です。もし、モデルを使う際に、モデルを構成している概念を知らなければ、モデルそのものを使うことができない--単純な技術として提示されていない--、というのであれば、モデルそのものが未熟だ、ということです。
「モノと関係」に関して、哲学を勉強していたら、ついには、プラトンやアリストテレスやスコラ学派を勉強しなければならないことを、痛烈に感じています。本文のなかで列挙した哲学者たちの書物を読んで理解するだけでも、そうとうに辛い勉強なのですが、さらに、(文章として遺されている) 哲学の原点まで遡るとなれば、(哲学を専門にしていない) 僕の知力を超えてしまいます。
数年を費やして、多数の哲学書を読んで、苦労しながら研究しても、最終的には、1つの文を説明するにすぎない。
でも、最終的には、event とは、「(内的性質として、) 日付が帰属する」という1つの文にすれば済んでしまう概念です。苦労しながら多数の年月を費やして、哲学を勉強しても、金銭の収入を得られる訳じゃない。逆に、哲学を勉強しようとすれば、仕事する時間を犠牲にして、勉強のための多大な時間枠を獲得しなければならない。 モデル作りに「取り憑かれた」エンジニアは、貧乏である、というのが宿命のようです。
|
▼ このウインドウを閉じる |