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With the good, we become good.

 
 コッド氏は、ほとんど、「意味論」モデルを考慮しなかった--というよりも、--彼の論文を読んで感じる点は--、意識的に、「無視」した、というほうが正確かもしれないですね。

 おそらく、彼は、--僕の単なる想像にすぎないのですが--、「構文論として、1つの公理形を作る(「構造」として、無矛盾性と完全性を実現する)」ことしか考えていなかったのではないでしょうか。そして、「意味」は、「構造」のなかで、制約条件として記述できる、と考えたのではないでしょうか。

 僕は、DOA+コンソーシアムの設立記念講演のなかで、以下のように述べました。

     コッド関係モデルは、「氷で作られた宮殿のように、美しい。」
     そして、スケート靴を履いて、氷のうえを、滑らかに滑ることができた。
     しかし、そのモデルを、「現実の」世界のなかに適用したときに、
     スケート靴と大地のあいだには、おおきな摩擦が出た。

 
 美しい比喩ですねえ(笑)。ちなみに、この比喩は、僕の着想ではなくて、ウィトゲンシュタイン氏の作品から転用しています(笑)。

 この「摩擦」が、いったい、どうして起こるのか、という点を、僕は、非常に気にしていました。そして、そのあとで、僕が、はっきりと、意識した点が、「意味論」と「構文論」との兼ね合いだったのです。

 コッド関係モデルは、あきらかに、「構文論」を主体にして作られています--そして、「意味」は、制約条件として記述されています。

 「構文論」では、たとえば、null値は、(空集合として、) 「成立しない」という1つの意味しかないのですが、「意味論」では、「unknown と undefined」という2つの意味として「多義」になってしまいます。

 コッド氏は、1986年と 1987年に、(DATAMATION 誌のなかで、) 「SQL の致命的な欠点 3つ」 という論文を記載したのですが、null値を扱うことができない (IBM 社の) SQL は ダメ だ、と非難しています。そして、null 値を扱うために、かれは、4 値論理を使っています。なぜなら、null は、意味論上、「undefined と unknown」 という 2つの意味 (多義) をもつから。

 また、「関係の論理」と集合論を使えば、データは、「かならず」、「並び」を配慮しなければならないのですが、彼は、論文のなかで、「並びは半順序になるので、関数 (リレーション) という用語ではなくて、関連 (リレーションシップ) という用語を使っても良い」と記述しています。

 僕は、当時、(コッド氏の影響下にあって、)「モデルは、構文論であるべきであって、意味論など、数理モデルでは、対象外だ」と思いこんでいました。

 ホワイトヘッド氏は、(自然現象を対象にしたとき、) モノを以下のように示しました。
 (1) 持続する現実的な事物
 (2) 生起する現実的な事物
 (3) 反復する抽象的な事物
 (4) 自然の法則

 (1) は、たとえば、山だとか岩だとか、あるいは、人間でいえば、「魂」とか。
 (2) は、日々のなかで起こる出来事とか、人間のからだのなかで起こる
    出来事とか。
 (3) は、たとえば、色合いだとか、あるいは、なんらかの認知パターンとか。
 (4) は、万有引力の法則とか、因果律とか。

 
 僕は、当時、コッド関係モデルを信奉していましたが、現実の世界のなかでは、ホワイトヘッド氏が言うように、事物には、「持続する現実的な事物」と「生起する現実的な事物」などがあって、「関係」として、「関数」を、そのまま、適用しても、事物の性質を考慮しなければならないことを感じていました。

 数学では、「term」も、(変項 a、b、c、、、として、) アルファベット順に並べることができるので、究極的には、「並べることができる」のですが、変項 a、b、c、、、は、事物の性質--「持続する現実的な事物」と「生起する現実的な事物」--を記述している訳じゃない。

 コッド関係モデルの「関数」を、現実の世界のなかで適用できるようにするために、僕は、T字形として、「resource」概念と「event」概念を導入して、「関数」を捨てました。
 そうすれば、当然ながら、「意味論」を考えなければならない。

 関係モデルの「関係」を、いくら、検討しても、事物の性質を判断できる訳じゃないし、事物の「性質」を、いくら、検討しても、「関係」を判断できる訳じゃない。

 関係を主体にしながら、「構文論」を前提にして、事物の性質を記述すれば、「数理モデル」としたら、コッド関係モデルは、最良のモデルでしょうね。ただし、「意味」を、制約条件として記述せざるを得ない。もし、コッド氏が、「意味論」を配慮したら、関係モデルを捨てなければならなかったでしょう。なぜなら、そうしたのが、T字形ER手法だから。

 
 (2004年11月 1日)

 

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