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All meats pleases not all mouths. |
かって、オブジェクト指向的な若いSEが、「認知番号(コード体系)と日付」しか論点にしていないT字形ER手法に対して、以下のように、「きつい」コメントをしてくれました。 「こんなのが『方法論』?」 ははは、僕は、なんとも、返事できなかった。 T字形ER手法は、ちょっと、「あぶない」技術です。「技術として」、できうるかぎり、単純にしましたから、実地に使う際、逆に、T字形ER手法の「考えかた」を理解していなければ、踏み外してしまいます。 概念設計の技法として、T字形ER手法を使うなら、使いにくい技術です。概念設計技法として、もっと、ほかに良い技法が、いくつも、あります。そして、論理設計の技法として、T字形ER手法を使うなら、使いにくい技術です。論理設計技法として、もっと、ほかに良い技法が、いくつも、あります。 T字形ER手法を、「モデル」と云うことに対して、正直に言えば、僕は、かなりの抵抗感を覚えます。というのは、ほかの概念設計技法や、ほかの論理設計技法と比べて、それぞれ、概念設計の段階とか、論理設計の段階のなかで、比較すれば、T字形ER手法には、なんのメリットもない--損な比較になりますから。 T字形ER手法は、「システムを作り直したい」と思っているユーザが、「目標に向かって燃えているあいだに」、概念設計と論理設計を、一気に(同時に)やって、「ユーザが、ものごとを、どのように考えているか」という点を、「情報(画面など)」を基礎資料にして、「形式(形式知)」として、まず、整えてしまえ、というやりかたです。 そして、当初、作成したT字形ER図を、原案にして、添削しながら、ユーザの「のぼせ」を、「じっくりと」、冷ます技術です。そして、ユーザに対して、(システムの作り直しを考えているなら、)システムを、「もっと、ちゃんと考えなさい」と迫る技術です。だから、T字形ER図は、いったん、作成して、それから、添削することが、勝負点なのです。 というのは、技術が、いかなる思想を根底にしていようが、技術として使うことができなければならないから。僕から、T字形ER手法を、直接に指導されなければ使うことができない、というのでは技術ではないから。
ただ、実地のプロジェクトというのは、さまざまな人たちが参画して、生々しい人間関係も出てきますし、ユーザが理解している以上のことを、システムとして、実現することは、まず、むずかしい。
或る人 曰く、
そういう やりかた が良いことなのかどうか、という点を僕は判断できないのですが、モデルとしての理論的な整合性を崩さないようにしながら、ユーザが、最高に満足する点を探ります(こういう仕事をしていると、そういうことを感知するのが、こまやかになって、人間嫌い [ 自己嫌悪 ] になります--苦笑)。
ただし、こういう点(ユーザとの対応)は、ほかの人たちに伝授できない。でも、「技術」は伝授できる。だから、僕は、公にする書物のなかでは、「技術しか対象にしない」ということを指針にしています。
もし、モデルが「絶対的な」モノであるなら、モデルを使うユーザは--モデルを使う「すべて」のユーザは、モデルを、そのまま使えば、--、成功してきたはずですから。でも、それは「夢」物語でしょう。なぜなら、(モデルに対する)ユーザの理解度や、対象となっている事業の戦略的配慮や、プロジェクトの管理や、プログラムを作るソフトウェアハウスの人たちの協力度など、多くのパラメータがあるから。
ただし、モデルは、モデルとして、整合的でなければ、現実に対応するための「技術」にはなりえないでしょう。でも、モデルは、現実を、或る観点から記述することしかできない。
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