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Language is the dress of the thought. |
もし、そうだとすれば、対象を、いったい、どのくらいの数まで観測すれば良いのか、という点が論点になるし、そもそも、「事態として相違しても、性質として同じ」というような事実的対象を、いかにして、「事前に」認知することができるのか、という点も疑問点になる。 「モデルでは、対象は変項として扱われる」というモデルの性質を活かして、「法則」とか「ルール(規約)」は、まず、「演繹的」に作られるのではないか--たとえば、おおまかな着想を得て、当初から、一般形として、生まれるのではないか。 そして、一般形として考え出された着想が、いくつかの対象を変項として代入してみても、矛盾が出なければ、「法則」として作用するのではないか--当然ながら、論理的構文論では、「すべての」対象を前提にしても、矛盾がないことを示すために、「証明」という手続きが導入されるのではないか。僕は、数学の門外漢なので、数学者が、どのようにして、「証明」を使うのか--つまり、或る着想を得たあとで、それが、正しいことを「証明」する、というやりかたなのかどうか--、という点を想像できないが、「証明」は、結論 (或る命題) を、整合的である、と示す手続きあるのなら、最初に、命題 (問題) が定式化されているはずである。
「すべての」対象を事実と対応して、「真」を判断することはできないので、(記号と事実とを、いちいち、対応するかわりに、) 意味論--記号と事実との指示規則--を前提にして、 「L-真」概念 (カルナップ氏が提示した用語) の形として、「証明」を、構文論的に使わなければならない。言い換えれば、「L-真」概念では、「証明」手続きは、当初から (演繹的に) 一般化されて出てきた「法則」に対する「あやまり排除」(ポパー氏が提示した用語)として作用している。ただし、定義「『p』が真であるのは、p のときに限る」という対象言語に対して、「真」を判断するためには、メタ言語 (人工言語、たとえば、クラス演算) を使わなければならない。つまり、定義と「真」概念が、同じ言語に属していれば、パラドックスが起こるので、「証明」は、どうしても、メタ言語 (クラス演算) を使わざるを得ない。 ここで注目してほしい点は、「証明」は、推論 「p ⇒ q」 である、という点と、推論は、人工言語 (クラス演算) では、「q のときにかぎって、p である」 なので、「p ∈ q」として考えられている、という点である。論理的には、「¬ p ∨ q」として考えられている--つまり、「『p ならば、q でない』ことはない」というふうに、言い換えれば、¬(p ∧ ¬ q)というふうに--、考えられていて、q が、つねに、正しいためには、p も正しくなければならない、という考えかたが前提になっている、という点である。推論は、因果律なので、クラス演算では、包摂関係として、考えることができる。
さて、もし、「因果律を認めない」とすれば、どうなるか。因果律は、事実的現象に対して、我々が、認めた人為的な関係である、とすれば、どうなるか。言い換えれば、事実的対象は、そのまま、生起しているのであって、事実的対象のなかには、なんら、「構造」はない、というふうに考えることもできる。 タルスキー氏もウィトゲンシュタイン氏も、「真」概念を、「事実との対応」を前提にして考えていたが、ウィトゲンシュタイン氏は、上述したように、タルスキー氏の言うメタ言語を否認している。ウィトゲンシュタイン氏は、後期では、写像理論を間違っていた、と認めた。そして、言語の「意味」は、「使用」という行為のなかで成立するのであって、事実的現象が、言語を離れて、成立している訳ではないこと (「言語ゲーム」概念) を示した--すなわち、言語の使用のなかで、「事実」が認知され、立言と対比される「事実」が独立しているのではない、ということである。 経営過程は、「必然的な因果関係」ではなくて、「偶然的な(選択的な)因果関係」である。しかも、経営過程では、事業過程を管理過程が記述している。T字形ER手法は、そういう事態を対象にして、ウィトゲンシュタイン氏の考えかたを前提にして作られている。
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