このウインドウを閉じる

To sow the seed in the sand.

 
 学校を出てから、職業人として、仕事をするようになって、「(学生の頃に、) もっと、勉強していれば良かった」、と 悔やんでいる人は多いのではないでしょうか。
 そして、僕も、その一人です。

 僕は、就職するのが嫌だった。就職したくなかったから、大学院進学を選びました。この選択は、消去法であって、学問したいから、大学院に進んだ訳じゃない。
 文学をやりかったのだけれど、文才はなかったし--いや、文才がないくせに、文学をやりたい思いがつよかった、と言ったほうが正確でしょうね--、「文学青年」が陥りやすい思い込みとして、「金銭など汚い」といふうに、当時、本気で思っていました。

 「金銭など汚い」と思い込んでいた自称「文学青年」が、商学部の大学院に進んだのだから、学問に対して、熱意がある訳ではないし、捨てきれない文学への思いを満たすために、小説ばかり読んでいて、専門の文献を、ほとんど、読まない、という生活が続きました。
 専門文献を読んで、中身を まとめる際、小手先で整えても、それなりにやっていけたのが、僕の考えかたを、ますます、堕落したようです--すなわち、物事に対して、真摯に向かわないで、自らの つごうの良い見方をして満足している、という生活が続きました。

 就職してからも、そういう生活が続きました。
 事業のなかで、日々、使われている技術は、多くの人たちが使うことができ、かつ、事業に役立つことが使命であって、長い年数を費やして、事業と環境 (マーケット) の相互作用のなかで、次第に改良されてきて、「the state-of-the-art (最高技術の)」という訳でもないので、単調な日々が続いて、つまらなかった。

 「単調な日々」という言いかたをしましたが、僕は、プログラマだったので、徹夜作業も多く、不規則な生活が続いて、「ルーチン化された」仕事ではなかったのですが、「女工哀史」のような重労働が、日々、続きました。
 幸いか不幸か、会計学の知識が、(小手先でしか学習していなかったにもかかわらず、) 役立った。僕は、なまじ、論旨を、小ぎれいに、まとめる技術が巧みだったので、「できる (力量がある)」というふうに、まわりの人たちは僕のことを勘違いしたようです。僕は、なんら、力量を実証していなかったにもかかわらず、「できそうなヤツ」というふうに、期待されていたようです。

 そういう いい加減な態度 (曖昧な知識) の「化けの皮」が剥がれたのが、データベースを仕事の対象にしたときでした。まず、コッド論文を読んでも、皆目、理解できなかった。そして、RDBの internals (mechanism と techniques) を教えてもらっても、皆目、理解できなかった。「もっと、まじめに、(英語と数学を) 学習すべきだった」 と、痛烈に悔やみました。

 それからは、改めて、英語・数学 (集合論)・論理学・哲学を、猛烈に独学しました。さて、これからが、本ページのテーマです (笑)。

 独学ですから、「正規の」教育を得ていない。それぞれの学問には、それぞれの学問の「見方 (原論)」があって、学問の歴史のなかで、継承され、整えられてきています。僕は、独学したので、そういうふうに継承されてきたパラダイムを、正規に教育されていない。つまり、「我流」に陥る あやうさ がある。

 この あやうさ は、おそらく、或る専門領域を研究している人が、自らの研究を進めるために、ほかの領域で検討されてきた理論を援用する際にも、起こりうるでしょう。
 この あやうさ を排除するためには、それぞれの専門領域の研究家から、直接に指導を仰ぐ やりかたが、効果的・効率的です。しかし、職業人が、日中、仕事をやりながら、いっぽうで、改めて、英語・数学・論理学・哲学を学習しようとしても、そういう教育機関がない。したがって、大学に再入学するか、あるいは、「生涯教育」を謳っている公開講座に参加することになるのですが、「生涯教育」の公開講座は、英会話や文学や歴史などの領域に偏っていて、数学・論理学・哲学の講座が、ほとんど、皆無に近い。

 大学の教室は、夜間、ほとんど、使われていない、と想像できるので、空いている教室を使って、職業人向けの夜間講座をやっていただければ、我々職業人にとって、役立つのですが、、、。職業人が、学習し直すのですから、「再入門」として、「基礎講座」(数学・論理学・哲学・会計学・経営学・生産管理など)の理論を教授していただければ、非常に役立つ、と思います。

 僕は、数学 (集合論)・論理学・哲学の書物を読んでいて、「間違った読みかたをしているのではないか」という怖れを、つねに抱いています。
 おそらく、「論旨を的確に読み取る技術」を体得している人は、少ない、と思います。僕は、職業柄、数多くの・様々な人たちと会う機会が多いのですが、読書子と自認している人たちでも、書物を、ただ、多量に読んでいるだけであって、書物の論旨を正しく読み取っていないようです。そして、僕も、自らの読書のなかで、そういう怖れを抱いている一人です。

 実用的な対象科学を学習することは、仕事していれば、当然のことですが、いっぽうで、「岩盤のように、礎石となる」数学・論理学・哲学を学習したほうが良いでしょうね。マネジメントの態度として、任期中に、キャッシュフローを稼ぐことばかり考えて、「短期的な視点」に陥ることを戒めて、投資などの「長期的な視点」も配慮しなければならない、という意見が、マスコミでは、語られていますが、同じようなことは、個人の学習でも、言えるのではないでしょうか。

 システム・エンジニアが、そういう基礎学習をしたいと思っても、学習機関がないし、書物の「読みかた」を知らない、というのでは、学習意欲が殺がれてしまう。「どのようにしてやるのか、わからない」という状態に陥れば、現状を観る力は落ちるし、代替案を考え出す力がない、という結末になるでしょう。

 システム・エンジニアの全員が、そういう学習をしなければならない、という訳ではないでしょうね。おそらく、どの職業でも、才識 (的確な認知力と確実な構成力) をもっている人たちは、従業員のなかで、20%以下でしょう。ただ、そういう才識をもった人たちの数が、過去10年ほど、少なくなってきている、と感じるのは、僕の単なる気のせいではない、と思うのですが、、、。

 
 (2005年 2月16日)

 

  このウインドウを閉じる