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The fox is taken when he comes to take.

 
 「理論(あるいは、学問)」を軽視する人たちは、およそ、「自惚れ」がつよい人たちである、と僕は思っています。

 「自らの頭で考える」と云っても、その考えかたは、社会のなかで、教育されたのであって、その教育は--たとえば、学校教育は--、歴史のなかで、継承されてきた「理論(学問)」の基礎(推論のしかたや基礎知識)を教えているのだから、(学校教育を、すべて、捨てないかぎり、)「自らの頭で考える」という言いぐさは、はなはだ、怪しい。

 或る論点に関して、複数の理論が提示されているとき--そして、それらが、それぞれ、1つの体系として整合的であれば--、どの理論を信じるか、という点は、「使用上の目的」と「人生観 (すき・きらい)」が作用するでしょう。

 「整合的でない理論を信じない」というのは正しい行為だと思うけれど、「(複数の整合的な理論のなかで、)或る整合的な理論を信じない(あるいは、或る理論を信じる)」というのは、「すき・きらい」の論点でしょうね。「或る整合的な理論を信じない」と言うのであれば、ほかの整合的な理論を示すのが、意見を述べるルールでしょう。もし、ほかの整合的な理論を提示しないまま、或る整合的な理論を非難するのは、「I don't like it, because I don't like it.」という自己言及なナンセンスと同類でしょうね。自らの意見を述べる際--井戸端会議や酒の席を除いて、およそ、公の席で、なんらかの意見を述べるのであれば--、「立証責任(burden of proof)」は、第一ルールです。

 複数の整合的な理論があって、或る理論を非難しながら、ほかの理論を提示しないのであれば、「頭が悪い」と思われてもしかたがないでしょうね。というのは、複数の整合的な理論があることを知らないから。そういう人たちに対しては、「もっと、学習してください」というふうにしか言いようがない。

 「整合的」という意味は、或る前提を起点にして、論理が導出されている、ということです--言い換えれば、不意打ち(論理の飛躍)がない、ということです。
 また、1つの体系(モデル)は、かならず、目的・前提および制約条件を示しています。したがって、或る体系を非難する際、目的や前提をずらしたら、非難にならない。目的や前提を超える事象を、そのモデルが扱っていない、という非難も、正当な非難にはならない。「自動車が、空中を飛べない」という非難は、およそ、馬鹿げた言いぐさでしかない。

 しかし、そういう馬鹿げた反駁が、堂々と、なされている現実を、僕は、多々、観ています。(書物を読むには技術がいるのと同じように、)反証にも、ルールと技術があることを、忘れているようですね。(立証が整合性を示されなければならないのと同じように、)反証も整合的でなければならないでしょう。批評というのは、そもそも、(たとえ、或る理論が整合的であろうがなかろうが、)その理論の長所を認めながら、改良するために、弱点を補正する行為だ、と僕は思います。

 「やりこめてやる」などという不毛なことを、平然と言うような人の思いは、僕には、皆目、理解できない。相手をやりこめて、自らが「すぐれている」ことを示したいのでしょうか。そうであるのなら、自らが信じている理論を提示してくれたなら、ほかの人たちは、その理論が整合的であるかどうか、という点を検証すれば良いだけでしょう。「やりこめる」という言いかたには、どうも、落ち着いた検証とはちがう観点が混入しているようですね。

 或る論点に関して提示されている理論を知らないし--「原典」を読んでもいないのに、論旨を「推測」して、非難している人たちも多いようですが(苦笑)--、反証のルール・技術を習得していないし、かつ、「やりこめる」ことを、最初から狙っている人たちと討論するのは、不毛でしょう。

 若い世代のエンジニアに与えたい助言として、まず、「原典」を正確に読んで、次に、その理論の長所を探すようにしてください。それから、弱点を探せば良い。そして、できることなら、弱点を補正して、理論を一歩進めるように工夫してください。それが、1つの理論を学ぶ手順です。そして、それ以外に、手順はない。

 
 (2005年 3月 1日)

 

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