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The wheel turns round.

 
 ユーザは、じぶんでソフトウェアを作ることができなくても、「ださい」ソフトウェアを作ったといって、SEやプログラマを罵ることはできるでしょう。というのは、ソフトウェアを作るのは、じぶんの仕事ではないから。ただし、そういうふうに罵ることができるのは、ユーザがソフトウェアを外注したときにかぎられるでしょうね。もし、注文していないなら--自ら、ソフトウェアの仕様を示していないなら--、そして、もし、そのソフトウェアが嫌なら、購入しなければ良い、というだけのことです。

 戯れに--立証責任を負わないで--批評ばかりしていれば、そして、そういうことに愉しみを覚えてしまうと、すばらしいソフトウェアを観ても、「喜び」を感じなくなってしまうかもしれないですね。

 ソフトウェアを作るエンジニアは、自らの「作品」に比べて、ほかのエンジニアが、すぐれた「作品」を作ったら、「負けた」という悔しさと同時に「やられたなあ(見事だなあ)」という敬意も払うでしょう。なぜなら、じぶんも、同じ道を歩んでいた「共感」を覚えるから。エンジニアとしての「同胞意識」かもしれない。そういう「同胞意識」は、なにも、エンジニアにかぎったことではないのあって、尽力して実現された「作品」に対して、だれもが感じる敬意なのでしょうね。

 そういえば、(前回の)アテネ・オリンピックの体操では、日本選手たちの見事なワザに対して、競争相手の米国選手たちが、拍手していましたね。

 批評というのは、相手を、まず、認めることが前提です。そして、相手の美点を意識しながら、改良を促すために、あえて、弱点を述べる、というのが正しい批評です。(「悪質なソフトウェアを使えば、刑事的・民事的な『害』が起こる」ことを警告するのは正しいとして、)はなから、なんらかの理由で、相手を認めたくないのであれば、批評の対象にしなければ良いのであって、相手を攻撃することのみを狙った批評などは、批評家の力量を疑ったほうが良いでしょう。

 若い世代のエンジニアが、自らの技術を世間に対して問う際、批評を踏み外したような非難を浴びて、萎縮することを僕は懸念しています。僕も、30歳代の頃に、烈しい非難を浴びました。ただ、当時(20年くらい前)、世間では、一人のSEが成長する過程を、温かく見守ってくれる土壌があった。現代では、そういう土壌が少なくなったように感じます。
 でも、あなたは、プロのエンジニアとして、「技術を使う」ことで給料をもらっています。その技術を、世間に問うことは、すばらしいことでしょう。もし、非難を浴びて、気落ちしたのなら、あなたが信頼する人たちの意見を聴いてください。そういう人たちが、(気休めやお世辞などを言わないで、)あなたの やりかた に対して賛同するのであれば、あなたは、奮い立って、前進すべきでしょう。

 
 (2005年 3月23日)

 

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