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The boughs that bear most hang lowest. |
T字形ER手法を着想した時期は、今から振り返れば、かれこれ、10数年前のことです。当初、数年間は、T字形ER手法として、個々の技術を作り全体の体系を整えることに集中していて、総体的な批判をする余裕がなかったのですが、或る程度、体系が整いはじめた頃--今から振り返れば、10年ほど前--から、小生は、T字形ER手法のなかに、技術的に、ならびに、理論的に、不備な点を見付け出して、T字形ER手法を「叩き潰す(たたきつぶす)」を考えてきました。技法として「ききめがあること」、技術として「つかいやすこと」、そして、方法として「整合的であること」という3点を、それぞれ、最大限に実現できるようにするために、T字形ER手法を、(実地のシステム作りのなかで使いながら、)検証してきました。
モデルを作った本人が--もし、本人が、科学的に正しい考えかたをしているのであれば--、そのモデルに対して最大の批判者です。 対象科学のなかで使われるモデルというのは--純粋に理論的なモデルを除けば--、構文論(生成規則)として、いかに、妥当であっても--「構造の妥当性」を実現していても--、現実的対象が変化すれば、意味論(指示関係)を検討し直さなければならない事態も起こるし、意味論が変化すれば、構文論も、呼応して、ひょっとしたら、修正しなければならない事態が起こるかもしれない、という危難に晒されています。
ウィトゲンシュタイン氏は、「論理哲学論考」を執筆したとき、「ここに報告された思想の『真理性』は、もはや、犯しがたいものであり、決定的なものであるように思われる。私としては、それらの問題は、本質的な点では最終的に解決されたと考えている。」と言いました。そして、「傲慢すぎる」と非難されました。アインシュタイン氏は、科学者として、「法則」の性質を的確に述べて、「わたしの公式は、ひょっとしたら、覆されるかもしれない。」と言っています。 モデルを作って、いったん、その構造の妥当性を証明したら、往々にして、安心してしまうのですが、安心は、科学的な態度から言えば、慢心と同義です。
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