▲ このウインドウを閉じる |
Everything is good for something. |
(1) 前半の 「取って付けたような」 数学知識 (理論編) そして、拙著「論考」を、「とんでも」 系と言っているそうです (笑)。その人は、試験勉強のために、拙著「論考」を買って読んだようです。「論考」を読む前に、ぼくの (SDIの) ホームページをアクセスして、「とんでも」 系であることを推測していたそうです (笑)。 以上の話は、酒の席で、或る人から聞いた情報であって、ぼくが、直接に、そのページをアクセスしていないので、そういうふうに綴られているのかどうか、という点を、ぼくは確認していない。また、確認するために、アクセスするつもりもない。ぼくは、みずからのことを考えるのが精一杯なので、まずもって、ほかの人たちのウェッブ ページを読むほどの精神的・時間的な余裕がない。そして、もし、読んだとしたら、批評に対して、「いらいら」を感じるので、いっそう、精神衛生上、悪いので、読まない。身内である 「TMの会」 の メーリンク゛・リスト でさえ、ぼくのほうに、回覧しないようにしてもらっています。 さて、上述した (「論考」に対する) 意見は、たぶん、「論考」 を読んだ人たちのなかで、90%以上の人たちが感じる感想ではないか、と ぼくも思っています。でも、ああいう構成でしか、ぼくは、綴ることができなかった。 「論考」 を綴った最大の理由は、「あとがき」 のなかで綴りました。そして、ぼくの考えは、「あとがき」 のなかでも、「迷い」のまま、綴られています。「はしがき」 を綴っていながら--「はしがき」 は、本文を脱稿してから、最後に綴ったのですが--、さらに、「あとがき」 を綴らざるを得なかった。「あとがき」のなかで、ぼくは、以下の諸点を、(みずからに問うように、) 確認しています。
(1) 「関係」 を、(事業過程のデータを対象にしたら、) 「直積」 として、非対称性のみ
(2) 「性質」を起点にして、外延を考えることは、ほんとうに、「認知」として、妥当なのか。
(3) 概念の階-構成を考えることは、当然ながら、正しい。ただ、集合的性質と周延的 以上の3点は、TMの前提を確認している。すなわち、(1) は、「関係の対称性・非対称性」(「resource と event」 概念) を確認して、(2) は、認知番号 の考えかたを確認して、(3) は、第一階の述語--もっと、正確に言うなら、「S-P (主語-述語)」形式を基本形にすること--を確認している。 それらを確認するためには、どうしても、数学基礎論の考えかた (および、基本技術) を、網羅的に、調べなければならなかった。数学基礎論の基本知識を、或る部分のみ強調して、都合の良いように、援用するつもりは、毛頭、なかったし、そもそも、「論考」 を丁寧に読んでいただいた人たちは、TMの体系が、「検証」では、数学的手法を前提にしているが、TMそのものは、数学的手法を前提にしていないことを理解できる、と思う。 たとえば、「resource と event」概念や、「区分コード」を使って生成したサブセット概念に対して、以下のように、数学的な「分割と細分」概念を--前半の「取って付けたような」 数学知識を、すべて、外して、それらを、すでに、知っているという前提に立って--記述したら、読者は、TMの体系を、ほんとうに、理解できるのだろうか。
(1) 分割 (partition)
(1)-1 S ∈ π ∧ T ∈ π ∧ S ≠ T ⇒ S ∩ T = φ.
(2) 細分 (refinement)
(2)-1 ∀ x, y ∈ A に対して、xRy1 ⇒ xRy2 。
もし、「黒本 (T字形ERによるテ゛ータヘ゛ース設計技法)」 の延長線上として 「論考」 を考えていて、構文論的に証明するのであれば、ぼくは、そうしたはずです--「写像」 を前提にして、数式を使って、TMを証明したはずです。しかし、「論考」 は、「黒本」 の考えかた (写像) を否定するために出版しました。
(1) 1つの複文は、いくつかの単文から構成される。
(2) モノ (個体) と関係を同一レベルで記述する (作図する)。 そのために、まず、「性質 (述語)」を起点にして、外延を考えることをやめて、個体指示子 (認知番号、しかも、「同意」された認知番号) を起点にして、個体を考えるようにしました。さらに、「情報」を対象にして、「情報」のなかで、ことば が、いかにして使われているか、という点を重視するようにしたので、どうしても、ことば の 「意味」 が成立する正当化条件を考えなければならなかった。そのために導入した考えかたが、(ウィトケ゛ンシュタイン氏の) 「言語ゲーム」 だった。
もし、「同意」 (あるいは、規則) のなかで、「意味」 が成立していること (正当化条件) を前提にできれば、ことば と事実的対象を対比して、「F-真」 とすること (真理条件) を、ぼくは否定しない。実際、ぼくは、(カルナッフ゜氏が提示した) 事実的な「F-真」・導出的な「L-真」を使っています。
ぼくが、「論理テ゛ータヘ゛ース論考」として検討したかった点は、まさに、クリフ゜キ氏のいう 「言語正当化条件」(あるいは、モデルの正当化条件) だったのです。したがって、数学的技法を使って、TMを証明することではなかったし、そもそも、そういうことができない「前提」を検討対象にしたのです。ただ、そういう検討をするためには--そもそも、数学的手法を使って記述できない対象かもしれない、と思われたので--、数学的手法を使って、事実的対象を、どのように記述できるのか、という数学的技術、および 数学的な (集合論的な・述語論理的な) 考えかたとは、いったい、どのようなことなのか、という点を、網羅的に検討しなければ、ぼくが検討しようとしていることが 「独断的 (ひとりよがり)」 になる危険性があったので、ぼくは、数学基礎論の技術を、まず、「理論編」として、網羅的に、棚卸してみたのです。 ここまで ご理解いただければ、「文献」が、ああいう体裁にならざるを得なかった点も、ご理解いただけるでしょう。
「論考」の論旨を、一言でいえば、「認知番号、しかも、同意された認知番号」を使って、個体を認知する正当化条件を検討することでした。ぼくが、「同意」 とか 「規則に従う」 ということを、さかんに言いはじめたのは、「論考」を出版したあとになってからです。 そう考えていただければ、ああいう体裁にならざるを得なかった点を、ご理解いただけるでしょう。数学の門外漢であるぼくが、数学基礎論を網羅的に綴ったのですから、渾身の力を注いで執筆したとは言っても、たぶん、「理論編」の記述には、間違いがあるかもしれない。そして、数学基礎論の基本技術が綴られているからといっても、(以上に述べたころを、ご理解いただければ、) 試験用の参考書ではないし、たぶん、「とんでも」 系の書物でしょうね (笑)。
|
▼ このウインドウを閉じる |