このウインドウを閉じる

He blows his own trumpet.



 「反コンピュータ的断章」のなかで、以前 (6月23日)、(専門化の) 「たこつぼ」化を綴りました。そして、ぼくは、「たこつぼ」化現象を、技術的には、さほど、悲観的に感じていない、という意見を綴りました。

 或る研究領域を、まじめに学習しようとすれば、広大な海 (専門領域の知識) の前にたたずんで、海の広さを観て、ただただ、どの向きに泳げばよいのか、ということが検討つかないまま、呆然とするでしょう。人類が、長い歴史のなかで、継承してきた知識の (広大な) 海を、一人が泳ぎ切ることなどできない。

 みずからの意見を述べるときに、(推測の) 前提を示さないまま、みずからの考えかたが完全無欠であるかように--したがって、ほかの人たちの考えかたを認めない--断言する言いかたを聴くと、ぼくは、うんざりします。仮に、その人の考えかたが正しいとしても--遺憾ながら、そう判断できるほどの充分な前提を示してくれていないのですが--、広大な (知識の) 海のなかでは、僅かな一滴にすぎない。

 天才を除けば、われわれ凡人が作る思想・技術などは、ほとんどすべてが、過去の思想・技術を巧みに流用したにすぎない。そして、みずからが流用した思想・技術のほかにも、膨大な数の思想・技術が存在する、ということを考えてみればいい。

 もし、1つの考えかたが、すべての事態を証明できるのであれば--ほかの考えかたに対比して、最高位にあるのなら--、複数の思想・技術を対象にした選択には、「妥当な」基礎がない、ということになってしまう。

 学問の海 (の広大さ) を観れば、みずからが最高などという自惚れは消え去ってしまう、と思うのだが、、、。みずからを、たかが、「たこつぼ」 の1つにすぎない、と考えて、謙虚になると思うのだが、、、。

 
 (2005年 7月16日)

 

  このウインドウを閉じる