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A child is what his parents make.

 

 モテ゛ル (modeling) 作りを仕事にしている人たちに対して、私は、親近感を抱いています。モテ゛ル 作りの仕事は、作る労力に対して、見返り (報酬) の少ない仕事です。それでも、現実的事象に対して、なんらかの妥当な 「構造」 を与える一般手続きを考えて、その一般手続きを、ほかの人たちが使って役立つようにするために、単純な手続きとして まとめます。

 現実的事実を対象にしているかぎり、モテ゛ル は、「ききめ」 が問われます。「ききめ」 を実証するために、数多い臨床実験をしなければならない。当初作られた モテ゛ル は、部分的に--ときには、ひょっとして、モテ゛ル のすべてが--間違っているかもしれない、という危険性を孕んでいます。したがって、臨床実験では、clients の覚悟・協力がなければ、モテ゛ル の導入・実証ができない--試験的な モテ゛ル を導入する訳ですから。

 私自身のことを言えば、TM では、当初、「(テ゛ータ 構造を作る) 文法」は、網羅性を実現していなかった--「event 対 event」 のなかで、先行 event が多値になる事態や、再帰 (自己参照) の事態などは、考慮されていなかった。それらは、モテ゛ル を実地に使って遭遇した事態でした。TM は、当初、意味論的な語彙 (「event」 概念と 「resource」 概念) を前提にして、構文論として、3つの文法--「event 対 resource」、「event 対 event」 および 「resource 対 resource」 という関係文法--を提示して、きわめて、エレカ゛ント な体系を作ったと自負していた (自惚れていた) のですが、実地に適用したら、「多値」 に対する考慮や、関係 aRb のなかで、「a = b」 を見落としていました。そして、それらの見落としを、的確に、警告してくれたのは 実 テ゛ータ です。TM は、いまでは、フ゜ロク゛ラム の ステッフ゜ 数で言えば、総計で数億 ステッフ゜ を超える システム 群のなかで検証されてきました。

 「サフ゛セット (テ゛ータ の周延)」 は、いまでは、TM の特徴の 1つになっていますが、当初、TM では、サフ゛セット は配慮されていなかった。TM を実地に適用していて、「区分 コート゛ (および、種別 コート゛)」 が、フ゜ロク゛ラム の複雑性 (cyclomatic complexity) を増大しているのではないか、という点に気づいて、しかも、その複雑性は、テ゛ータ 構造が 「周延」 していない現象に起因する点も気づいて、「サフ゛セット」 は、テ゛ータ 構造の 「周延」 を検証するために、途中から導入された手法です。この点も、clients の協力がなければ、検証できなかったでしょうね。

 TM を実地に適用してきて、その 「ききめ」 が検証され、不備が次第に改良されて、いまの TM の体系 (認知、類別、関係、周延、多値、みなし概念) に収斂してきました。実地に使っていて、今の所、TM は、大きな不備を出していないし、「ききめ」 を実現しているのですが、環境変化 (事業環境の変化、および IT 環境の変化) のなかで、TM の適応性を、つねに、検証し続けなければならないでしょうね。

 モテ゛ル は、実地に使う手法であるかぎり、まず、「ききめ」 が問われますし、いっぽうで、だれでもが使えるように、「単純性」 を実現して、かつ、(技術が、つねに、くり返して使っても、破綻しない、という) 「完全性」 を実現していなければならないでしょうね。したがって、実地に検証を続けるいっぽうで、理論的な検証もしなければならない。単純に言い切ってしまえば、実践的な有効性・単純性を実現して、かつ、理論的な妥当性も実現していなければならないでしょうね。単純に言い切ってしまえば、そうなのですが、その検証たるや、10年に及ぶ労力を費やすことになります。モテ゛ル を使う人たちに対して、モテ゛ル が破綻しないことを示すために--というよりも、みずからの作った モテ゛ル が、「自己流」 ではなくて、不備のない (完全な) モテ゛ル であることを確認するために--、モテ゛ル を作る人たちは、学術書を数多く読んで、モテ゛ル の妥当性を検証します。その検証は、見返りとして、直接的な報酬を与える訳じゃない。その検証は、どこまでも、モテ゛ル を作った人の自負心・良心 に帰属する。その検証は、モテ゛ル を使う人たちにすれば、「知ったこっちゃない」 労役です。

 一般手続きを作ることは難しいのですが、さらに、いったん作った一般手続きを検証して改良し続けることも難しい。

 故 ・ 小西甚一先生 (国文学者) は、高校生向けの学習参考書を執筆なさったときに--小西先生ほどの大研究家が、みずから、高校生向けの学習参考書を執筆なさるということ自体、驚きなのですが--、「はしがき」 のなかで、以下のように綴っていらっしゃいます。

   しかし、それらの糊ハサミ式参考書を見て感じたのは、いっぽん筋がとおって
   いないということである。器用にまとめてはあっても、全体としてぐいぐい迫って
   くる力がない。つまり死に本である。では筋とは何か。良心である。十年に
   わたって書き直したけれど、私の本にはまだ不備があるかもしれない。だが、
   良心だけは、ぜったいに不備でないつもりである。

 
 私は、小西先生を見習いたい、と思う。

 
 (2005年11月23日)

 

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