鯨を一口で食べた人を私は見たことがない。
「思う」 という行為は一瞬の営みかもしれないけれど、「考える」 という行為は手順を辿る営みでしょう。
考えた形跡を、できるかぎり、簡潔に見て取れるようにするために、定式を作ろうとしますが、簡潔な定式を作ることは、なかなか、難しい。簡潔な定式に至るまでに、数々の試行錯誤をくり返すことが多い。そして、たとえ、定式化できたとしても、その式は、いちぶ (あるいは、ひょっとしたら、全部) が間違いであるかもしれないという危うさを免れない。
式そのものは、公理を前提にして導かれていれば、completeness を実現することができるのですが--構造的な妥当性を実現できるのですが--、もし、式が現実的事実を対象にしているのであれば、変項として扱った対象の range (範囲) が問われます--すなわち、対象が 「真」 とされるのは、どのようなときなのかという点を、式は、あらかじめ、示していなければならない。それが意味論の論点です。そして、その 「真」 とされる対象は、環境が変化すれば、それに対応して変化します。
たとえば、ス-ハ゜-マ-ケット では、「顧客」 が買い物をしても、「顧客」 を管理することは、まず、しないでしょう。「売上」 が 「顧客」 を示しているのであって、1人の顧客が、同じ日に、2回以上の買い物をしても、それらの買い物が同一 「顧客」 であったという管理はしていないし、管理しなければならない訳もないでしょう。(ちなみに、そういう事態に対して、job-analysis と称して、「顧客」 の icon を作って、絵を描いている システム・エンシ゛ニア の知性を私は疑います。)
しかし、もし、ス-ハ゜-マ-ケット が、会員制の ショッヒ゜ンク゛・カート゛ を導入したら、顧客管理の事態は変化します。そういう事態になれば、カート゛ および顧客を認知するために、カート゛ 番号と顧客番号が管理番号として導入され、ひょっとしたら、(もし、顧客番号を連続番号を付与していれば、) 「顧客」 の再帰を構成して、家族構成を記録するかもしれないですね--そして、ファミリー・カート゛ 制を導入するかもしれない。
この時点で、「真」 とされる 「情報」 が変化します。
事業のなかで、いったい、どういう対象が 「真」 とされるのかという点は、事業過程そのもの-の中にはない。それは、(事業過程に対する) 管理過程の中で示されます。
(2005年12月 8日)