最初から、ハ゜ーフェクト な物を作ることなどできない。物作りには、かならず、
「試行錯誤」 と 「推敲」 がある。
私が読んだ 「音楽家の伝記」 によれば、モーツァルト のみが、書き直しをしないで、
スコア (総譜) を書いた天才です。ヘ゛ートーウ゛ェン は、いくつかの断章 (断片的な楽想を綴った
物) を、しばらく、そのままにして、1つの 「構成」 を作るために、いくども、
書き直しをしています。ヘ゛ートーウ゛ェン の天才にして、然り。
ロタ゛ン も、彫刻を作る際、自らの像を形として的確に整えるまで、まるで、
職人のように、手を、つねに、動かしていたそうです。
着想というのは、一気に、形として、とどめるしかない。そして、頭から
出てきて形になった 「怪物」 を、そのあとで、次第に、整える (推敲する)
しかない。そして、最後には、一寸の狂いもない (自らの着想と ス゛レ のない)
「作品」 として整えるしかない--もっとも、「作品」 には、完成などない
のであって、「完成」 として見えるのは、実は、締切日があって、中断した
状態にすぎないのですが。
さて、昨年 (2005年)、かってのT字形 ER手法を、TM (および、TM') として
再体系化しました。この再体系化は、単に、T字形 ER手法の 「説明のしかた」 を
変えたのではなくて、T字形 ER手法の考えかた・技術を、根本から見直しています。
この見直しの対象になったのは、対照表の性質です。
entity は、「合意」 概念を導入して、意味論的に、「event と resource」に
類別しています。したがって、この前提に立つかぎり、「F-真」 および 「L-真」
という 「真」 概念を導入しなくても良いのですが、そういう 「真」 概念を
導入しなければならなかった理由は、対照表の性質を判断するためです。
対照表は 「構成表」 です。「構成表」 は、以下の 2つの性質を示します。
(1) 「過程」 としての構成 (-ing)
(2) 「結果」 としての構成 (-ed)
(1) は行為・現象を示して--生起する現実的な事物を示して-- 「event 的」 な
性質を帯びています。したがって、性質として、「日付」 を付与することができます。
悩ましい点は、構成表の 「すべて」 が、この性質を帯びるという点です。
いっぽうで、(2) は、個体 (resource) の複合概念を示すことがあります。
その典型的な現象を、「赤本」 (「テ゛ータヘ゛ース 設計論--T字形ER」) の最終 ヘ゜ーシ゛
で示しました。
「赤本」 以前では--「黒本」 (「T字形 ER テ゛ータヘ゛ース 設計技法」) および
「論考」 (「論理 テ゛ータヘ゛ース 論考」) では--構成表に対して 「意味論上の解釈」
しか示していなかった。当然ながら、構成表を、「構文論上」、どのように解釈
すれば良いのかという点を示さなければならない。対照表 (構成表) は、以下の
ように考えれば理解しやすい。
(1) 構成表は、構文論上、「resource」 の文法を適用する。
(2) 構成表は、意味論上、「event」 を言及する。
(2) では、「赤本」 の最終 ヘ゜ーシ゛ に示したように、「resource 的」
な構成表が出るのですが、ただ、それを、「resource」 として判断するかどうかという
点は、TM の 「前提」 を超えてしまいます。
TM の 「前提」 は、「実 テ゛ータ と、それらの セット」 を対象として、数学的には、
第一階の述語論理のなかで整えてあります。したがって、「赤本」 の最終 ヘ゜ーシ゛
で示した構成表は、どこまでも、構成表であって、「resource」 ではない。
ただし、その構成表は、「F-真」 を示しています。その 「F-真」 を 「resource」
として認知するためには--証明するためには--、概念の階を、もう 1つ、上に
しなければならない。でも、それは、TM の 「前提」 を超えてしまいます。
言い換えれば、TM の体系のなかで、意味論的に、「真」 であっても、証明できない
文があるということです (ケ゛ーテ゛ル の不完全性定理ですね)。
以上の文を お読みいただければ、「赤本」 のなかで、(「event と resource」
が、「合意」 概念を導入して、意味論的に定義されているにもかかわらず、)
どうして、「F-真」 および 「L-真」 を導入したかを理解できるでしょう。そして、
「構成表」 の 「組 オフ゛シ゛ェクト」 を、どうして、最終 ヘ゜ーシ゛ に記述したかも推測
できるでしょう。この 「構成表」 を証明するためには、いよいよ、関係主義と
実体主義を丁寧に研究しなければならない。「構成表」 は、そもそも、関係主義
(コット゛ 関係 モテ゛ル) を実体主義の観点から見直したがために生じた構文論上の文です。
「赤本」 を、あの記述で、意図的に終えた理由は、「構成表」 の性質を証明する
ためには、階数を 1つ上位にしなければならないけれど、TM は、それをやらない
ことを示して、かつ、「構成表」 の性質を再検討することを示唆しています。
ただ、関係主義と実体主義の検討は、哲学の重立った思想を棚卸しすることに
なるので--言い換えれば、「論理 テ゛ータヘ゛ース 論考」 の哲学版を執筆することになるので--、
今の私には、悲しいことに、まだ、その気力がない、、、。ただ、TM を推敲
するためには、どうしても、やらなければならない研究です。
(2006年 2月16日)