私は、過去 20年以上、数え切れないほど、セミナー 講師を勤めてきました。しかし、いまだに、セミナー の壇上に立つのは憂鬱ですし、セミナー が苦手です。セミナー が終わった夜に、私は不眠に陥ります。そして、言い知れぬ虚無感に襲われるのが常です。
セミナー では、事前に、ハント゛アウト (参加した人たちに配付する資料) が用意されるので、ハント゛アウト に記した テーマ を語ることは、音楽の演奏に喩えれば、ハント゛アウト は スコア (総譜) であって、スコア を演奏することに似ているでしょう。
スコア を事前に読み込んでいれば、なにを語れば良いかと思い煩うこともないはずなのですが、実際の語りは、そう単純ではない。というのは、選んだ テーマ が、新たな視点を示すことを狙っていれば、セミナー に参加した人たちが テーマ に関して抱いている 「像」 と食い違うので、参加人数が多ければ多いほど、講師は、「1-対-複数」 の力関係のなかで、多数の人たちを説得するために、そうとうな集中力を注がなければならないから。
さらに、スコア に綴られている音符は、「音楽記号」 であって、その記号を どのように 「解釈」 して演奏するかという点は、演奏家の力量次第です。すなわち、「構成」 は、同じであっても、同じ演奏にはならないということです。ヘ゛ートーウ゛ェン 作 交響曲第三番の出だしで打たれる フォルテッシモ は、音楽記号ですが、どの程度の強さなのかという点は--フ゛ルックナー の使う フォルテッシモ と同じなのかどうか--、(フ゜ロフェッショナル な音楽家に訊いてみたいと思うのですが) たぶん、違うのではないでしょうか。
同じ曲を ふたつの違う指揮者・楽団で聴いて比べるとしても、会場の音響とか楽団の編成人数などで違うでしょうし、 「生の」 演奏を聴きて比べるには、音楽の訓練をしたことのない シロート たる私の音感では、聴き比べは怪しいので、CD 版で比べてみたら--CD 版は、たとえ、「生の」 演奏を録音しても、録音技術の善し悪しが大きな比率を占めるので、確かな比較にはならないのですが--、たとえば、ヘ゛ートーウ゛ェン 作 交響曲第五番を、フルトウ゛ェンク゛ラー と カルロス・クライハ゛ー で比べたら、ふたりの指揮は歴史に遺る名演奏という評価ですが、開始の強さ・テンホ゜ も違うし、構成の進めかたも際立って相違しています。フルトウ゛ェンク゛ラー は ルハ゛ート を多用していると言われていますし、カルロス・クライハ゛ー は、音を やや スタッカート 気味に区切っています (ただし、ふたりが使った スコア も、「版」 の違う物です)。
フルトウ゛ェンク゛ラー が、カルロス・クライハ゛ー のように演奏することは--たとえ、フルトウ゛ェンク゛ラー が、今日、生きていたとしても--、起こり得ない事態でしょうが、フルトウ゛ェンク゛ラー の指揮は、フルトウ゛ェンク゛ラー の 「スコア の読み (解釈)」 として、同じ曲を 繰り返し指揮しても一貫しています。
セミナー の ハント゛アウト を スコア とみなせば、セミナー は音楽演奏に似ているのではないでしょうか。私は、壇上に立つ前、いつも、集中力を得るのに苦労します。
ハント゛アウト には、速度記号・強弱記号が記されていないので、講師は、それらを考慮しなければならない。講師は、ハント゛アウト (構成) を作成した時点で、速度・強弱を考慮しているのが普通です。講師は、作曲家兼演奏家です。
講師は、作曲家兼演奏家だと言いましたが、ほとんど、「或る主題による変奏曲」 を作る編曲家です。「新たな主題」 そのものを提示する講師は、ほとんど、いない。私がやりたい仕事は、「新たな主題」 を作曲することです。そして、それが、どれほど 「身の程知らず」 かも、重々、承知しています。しかし、私の性質が、それをやりたいと願い、そして、その仕事に対する力がないので、「意識と実力との キ゛ャッフ゜」 が、セミナー が終わってから、虚無感として、私に復讐しているようです (苦笑)。実力がないにもかかわらず、自惚れた意識を満たすためには、私は、身を削って語るしかないのです。そして、虚無感に包まれて不眠に落ちる。
(2006年 3月16日)