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All that is alike is not the same.

 

 TM では、対照表に関して、以下の 2つの前提を導入しました。

  (1) 構文論上、対照表は、「resource」 的な文法を適用する。
  (2) 意味論上、対照表は、「event」 を言及する。

 ただ、この ルール は、あくまで、「構成表」 の 「構文論上の性質」 を、 そのまま、構文論上、使っているのであって、ほんとうに、その解釈が 正しいのかという点を立証はしていない (苦笑)--というのは、関係主義・ 実体主義の 「哲学的な」 検討をしていないから。

 「対照表」 は、関係主義 (コット゛ 関係 モテ゛ル) に対して実体主義を導入した がために生じた 「構成表」 です。そして、それは、コット゛ 関係 モテ゛ル では、 (テーフ゛ル として扱うことはできるけれど、) 正規形ではない。

 「構成表」 は、「集合 オフ゛シ゛ェクト」 あるいは 「組 オフ゛シ゛ェクト」 として考える ことができる。これらの オフ゛シ゛ェクト を第一階の述語論理を超えて使って 「クラス」 概念 に転用するか、それとも、第一階の述語論理のなかで止めるか、という点も 「構成表」 に対して影響を与えます。

 もし、第一階の述語論理を超えるのであれば、「構成表」 を、対象と して認知して 「クラス」 概念に転用して、「event 的、resource 的」 な概念 を適用しなければならないでしょう。

 ただ、私は、第一階の述語論理を超えるつもりはないので、「構成表」 を 「event 的、resource 的」 として はっきりと指示していない--正確に 言えば、「構成表」 のなかに、日付を付与できる対象のみを 「event」 と して認知する (言及する) ことにしています。その補集合 (「event 的」 でない構成表) を 「resource 的」 とするかどうかを言及していない)。
 意味論上の解釈として、「構成表」 のなかに、「event 的」 な対象が あるのなら、「event 的」 に対する補集合は、「resource 的」ではないか という解釈も成立しますが、私は明言していない。

 どうして明言しなかったかと言えば、構成表の 「すべて」 を 「過程 (-ing)」 として考えれば、「すべて」 を 「event 的」 として解釈する こともできるし、構成表を 「結果 (-ed)」 として考えれば、「resource 的」 として解釈することもできるので、あきらかに、「日付」 が付与され ている (あるいは、文脈のなかで、付与できる) 対象のみを 「event」 と して認知するという点で止めています。そのために、悩ましい現象が出るのは、 アトリヒ゛ュート をもたない 「構成表」 です。「event」 とも、「resource」 とも、 解釈できる。

 そして、このような現象が出る原因は、構成表を第一階の述語論理 で止めているからです。第一階の述語論理を超えれば--階を1つ上げた 文脈のなかで--、構成表が 「resource 的」 に認知されているのか、それとも、 「event 的」 に認知されているのかを文脈のなかで判断できるのですが、 やっかいなことに、事務系の実 テ゛ータ を対象にしている テ゛ータヘ゛ース・ハ゜ラタ゛イム では、 第一階の述語論理を超えた文脈 (「性質の性質」)--言い換えれば、管理過程を さらに 「写像」 して構成した経営過程--はない。つまり、事業過程の 「メタ・メタ」 概念 はない。

[ 注意 ]  私が、ここで言っている 「メタ・メタ」 は、純粋に、 数学的・論理学的・哲学的な意味で言っています。

 ウィトケ゛ンシュタイン 氏は、「作図・思考・命題は正確に同じ レヘ゛ル にあって」 「個体と関係は同一 レヘ゛ル にある」 と言ったことは、少なくとも、 「実 テ゛ータ」 を対象にして、「構造」 (実 テ゛ータ の成立・不成立を判断する 構成表) を作る応用科学では正しい。

 以上に述べたように、「構成表」 は、第一階の述語論理のなかでは、 「event 的」 な対象を認知することはできるのですが、その補集合と なる対象を 「resource 的」 と判断できるだけの文脈が、ほとんど、 ないのです--いちぶには、その判断ができる対象もあります。 たとえば、「赤本」 の最後に示した 「支店」 の例など (218ヘ゜ーシ゛)。 すなわち、「構成表」 の性質として、あきらかに、「resource」 の 性質が記述されているとき。
 そして、その例を、私は、わざと、「赤本」 の最後に、「組 オフ゛シ゛ェクト」 として提示した理由が理解できるでしょう。

 「赤本」 の最後に、それを提示した理由は、わざと 「謎めいた」 終わりかたをして、これ以上の考えかたは、再度、「構成表」 を 関係主義・実体主義の観点から検討しなければ提示できないことを 示しています。すなわち、「構成表」 は、「event」 にもなるし、 「resource」 にもなるけれど、その判断は、さらなる検討がいること を示唆して、終わっています。次の著作 (研究成果) を待ってほしいと。

 
 (2006年 4月23日)

 

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