哲学者 プラトン が示したように、「対話」 は、思考を進めるうえで役立つ形式でしょうね。対話形式は、debate のように、相手が示した論点を起点にして反論するやりかたであってもいいし--当然ながら、たがいに、相手の意見を聞き入れないで、ただただ、みずからの主張を述べるのはだめですが--、取材のように、聞き手が巧みに質問しながら話し手の考えを聞き出すやりかたでもいいでしょう。
私は、対話形式を尊重していて、みずからの思考を進めるうえで、多々、使っています。ただ、私は、debate や取材という形式ではなくて、酒を呑みながら、対話しているひとといっしょに話を拡げるやりかたを採っていますが (笑)。私は、酒を呑んでも直ぐに酔うのですが--日本酒なら、2合で止めますし、ビール なら、中 ジョッキーで 2杯で止めますが (それ以上に呑んだら、私の思考が止まってしまうので--笑)--酒を呑みながら対話することを気に入っています。私は、対話のなかで、多々、思わぬ着想を得てきました。
対話のなかで得た着想を詳細に詰めて彫塑のように刻んで--定義や体系として--整えるには、一人になって、孤独のうちに進めるしかないのですが、新たな思考の足場を組んだり、すでに整えられている体系を さらに拡げるためには、対話は役立つ手段だと思います。
対話形式が多人数になれば、「研究会」 や 「学習会」 のような形式になりますが、うっかりすると、それらの 「会」 が、(同じ考えかたを持った) 身内のみがあつまって自画自賛の会になったり、一人の中心人物を核にした崇拝の会になったりして、閉鎖的な会合に成り下がる事態に陥ることがあります。そういう事態は、「学ぶ」 という原義から程遠い状態でしょうね。一人の強い個性が authority として 1つの思想を整えるというのは--学問体系に地殻変動をもたらす (歴史に遺るような) 天才を除いて--、まず、あり得ないことであって、一人の貧弱な思考を起点にした我流なんか捨てて、みずからを 「学問の家に投げいれて」 研鑽するのが 「学ぶ」 という原義でしょう。この意味で、すべての人たちが--教師であれ、生徒であれ--同じ学徒のはずです。
身内があつまった会では、教師のほうも崇拝されて、うっかりすれば、まるで、みずからが そうとうに実力のあるように自惚れてしまう危険性が高い。
私は、「TM の会」 に所属していますが--現時点で、50人ほどが所属している会ですが--、会を主幹していない。この会は、早稲田大学エクステンションセンター の修了生たちが自主的に作って運営している会です。私は、ただの 「雇われ講師」 にすぎない。そしては、私は、この会の自主運営を気に入っています。入会の前提として、TM を知っていなければならないのですが、原則として、入会も脱退も自由ですし、会の幹事は輪番制です。メーリング・リスト や ホームページ が設置されていて--ただし、会員制ですが--、私は、メーリング・リスト に参加していないし、ホームページ では、私の著作に関して、きびしい批評も掲載されています (笑)。私は、ただの 「雇われ講師」 であって、もし、私が怠けて研究を続けないようなことにでもなれば、即刻、クビ にされるでしょうね。
「TM の会」 は、まいつき、1回の開催で、2時間の会合です。開催時間が短いので、会では、私が、one-way trafic で講師をしていますが、会が終わった 「飲み会」 では、会員たちが自由に意見を交換していますし、当日、私が述べた考えに対して、きびしい批判・非難が出ることもあります。そして、私は、前述したように、対話のなかで、それらの批判・非難を謙虚に聴いています。なぜなら、私の考えを拡げることができるから。
「TM の会」 の会員のなかから有志があつまって、「土勉会」 (まいつき、2回開催) を作っていますが、私は 「土勉会」 に関与していない。「土勉会」 では、実 データ を使って TMD (TM Diagram) を作っているそうです。ことさように、かれらの学習意欲は高いし、自主運営の精神は強い。そして、私は、かれらの そういう自主性を高く評価していますし、会のなかでは、TM を強制している訳ではないし、実際、ここ数ヶ月は、会計・新会社法・内部統制に関して私が講師を勤めています。
みずからの考えのほうが優れていると思い込んで相手を論破してやろうという下心を持った 「下衆 (げす) い」 ヤツ とは対話したくないけれど、「学問の精神」 を前提にしていれば、私は、私の考えと正反対の考えを持っているひとと対話するのが愉しい。ただし、酒を呑みながら (笑)。「マサミ さん、TM のしかじかの点は、まずいヨ。というのは、こういう反対例・反証を示すことができるから」 という意見を聴くのが私は好きです。TM を 「学問の家に投げいれて」--みずからの思い込みで作るのではなくて、だれでもが使えるように--、もっともっと、実用で役立つようにしたいから。
(2006年 5月16日)