私は、かつて、「文学青年」 であったので、まさか、大学院で会計学を学習するなど思いもよらなかったし、職業として、コンピュータ・エンジニアを選ぶとも思っていませんでした。どうして、このような道を選んだのかといえば、自主的に選んだのではなくて、(文才がないにもかかわらず、文学にあこがれていたので、) 貧乏を覚悟して小説家になるほどの決意がなかったから、モラトリアム にひたったまま、「逃げ」 の道を歩んできた結末が、そういう職業に就いたということです。したがって、30歳までは、失意の連続のなかで--不本意なままに--、生活していたと言っていいでしょうね。ただし、いまなら、私は、エンジニアであることを誇りに思っています。
さて、「金銭など汚い」 と本気で思っていた 「文学青年」 が会計学を学習しはじめたときに、不思議なことに、会計学の或る領域に対して、非常な興味を抱いてのめり込みました。その領域というのは、「会計公準論」 です。「公準論」 というのは、会計の理論的枠組みを研究する領域です。こういうふうに綴れば、いかにも、学問を熱心に研究したように映りますが、実際は、そうではなくて、或る 「罠」 に陥っていたというだけの話です。
すなわち、会計学の個々の具体的な技術を学習することを疎かにして--「文学青年」 であった私は、そういう技術を学習することは嫌がっていましたから (笑)--、「方法論」 という一般論に対して興味を抱いたというに過ぎない。個々の地味な実証的研究を疎かにして、いっきに、汎用的な思考法に対して興味を抱いたというに過ぎない。
「方法論」 というのは、以前にも、「反 コンピュータ 的断章」 のなかで綴りましたが [ 5月 8日の エッセー を参照されたい ]、かならず、「「いったん高く昇ってから ふたたび降りる」 ことを前提にしています。すなわち、かならず、個々の具体的な実証も前提にしています。具体的な事態と一般的な概念とを往復することを前提にしています。とすれば、もし、具体的な実証研究を疎かにして、一般論のみを対象にすれば、概念の弄びに過ぎないでしょうね。
さて、この同じような 「罠」 が、コンピュータ の システム 設計でも観られるようです。モデル (modeling) の手法のみに興味を示して、実際の個々の事業過程・管理過程を疎かにしている システム・エンジニア たちが すこぶる多いようです。われわれ システム・エンジニア は practitioner なのだから、まず、事業過程・管理過程のなかで起こっている事態を注視して、それらの事態を記述するために モデル を使うはずですが、モデル (modeling) の手法のみに興味を示すというのは、本末転倒でしょうね。
(2006年 6月16日)