本 ホームページ の 「思想の花びら」 (11月16日付) で、私は、坂口安吾 (小説家) の以下の ことば を引用しました。
すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。
けれども、それは、心に病める人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人に
とっては、ただ毒薬であるにすぎない。
この ことば は、ひょっとしたら、TM (T字形 ER手法) にも当てはまるように、私は感じました。
事業過程を観て、事業の 「構造」 を記述できる力 (ちから) のあるひとには、TM は不用でしょうね。そして、事業過程そのものを対象にして、DFD とか UML を使って、事業の 「構造」 を正確に記述できると思い込んでいるひとには、TM が 「毒薬」 (あるいは、いかがわしい 「宗教」) のように思われるでしょうね (笑)。実際、TM を非難して、「(TM を使っている人たちのことを) TM の信者たち」 という言いかたがされていたそうです (苦笑)。そういうふうに感情的な非難をしたひとは、TM に関して、いったい、どのくらいの知識があるのかしら。
TM は、数学・論理学・哲学・会計学・生産管理などの学問領域で継承されてきた技術--しかも、基本中の基本の技術--を体系化したにすぎないのであって、私の独得な着想などは、ほとんど皆無です。もし、私の独自な着想があるとすれば、それらの初歩技術を巧みに体系化したくらいです。
私の眼から観れば、システム・エンジニア が事業過程そのものを対象にして、DFD とか UML を使って、事業の 「構造」 を正確に記述できると思い込んでいることのほうが、うぬぼれているのではないか と思うのですが、、、。あるいは、もう少し穏健に言って、非効率だと思うのですが、、、。わずか半年以内で、或る事業過程を観て、その 「構造」 を記述することが、はたして、「参与観察 (participant observation)」 に値するのかしら。
新しい語-言語--たとえば、日本語以外の言語など--を はじめて学習するような事態を除けば、或る語-言語を使って、「情報」 が伝達されて 「情報」 を資料にして事業を営んでいるのであれば、オノマシオロジー に比べて、セマシオロジー の観点に立ったほうが、「意味 (意味の構造)」 を記述しやすいと思うのですが、、、。(参考)
TM は、事業過程・管理過程の構造を記述する際、セマシオロジー の観点に立って、「(事業過程のなかで伝達されている) 情報」 を分析します。この接近法が、たぶん、事業過程を観て、DFD とか UML を使って、事業過程を記述したがる人たちには気に入らないのでしょうね。そういう人たちを、(坂口安吾が言ったような) 「心に病なき人」 というふうに 私は思わない。すくなくとも、モデル 理論を学習したことのないひとが、モデル を批評できる才識があるなどということはありえないはずです。もし、そういう知識がないままに思いつきで TM を非難しているのであれば、正当な批評ではないですね。
私は、現実の事態を観て モデル を作る 「記述的意味論」 を排除するつもりはありません。それも、1つの やりかた ですから--ただ、そういう やりかた は非効率だと思っていますが。そして、いっぽう、「語-言語」 を対象にして モデル を作る やりかた (「論理的意味論」) も 1つの やりかた であることを知ってほしいですね。
(参考)
「意味論」 には、以下の 2つの アプローチ がある。
(1) 形式的構造から意味を研究する (この アプローチ を、セマシオロジー という)。
(2) 現実的事態から形式を研究する (この アプローチ を、オノマシオロジー という)。
それらの詳細については、本 ホームページ 300ページ を参照されたい。
(2006年12月16日)