私は、「学者肌」 であるというふうに言われることが多い。そういう言いかたをされるたびに、私は戸惑いを感じてきました。
そう言われるように、確かに、私は、研究に そうとうな労力を注いできました。しかし、私が進めてきた研究は、学者が進めている研究とは違っていて、専門領域のなかで、最新の学問的な論点を対象にしてきた訳ではない。私がやってきたことは、学問のなかで継承されてきた知識・技術を学習して、データ 設計の技術として応用することであって、「研究」 ではなくて 「学習・応用」 に近い。
私は、一般の読書子として、多数の書物を読んできたのであって、学問を究めることを目的として、文献を読んできた訳ではない。もし、私が 「学者肌」 なら、「似非」 にすぎないし、学問を真摯に究めようとしている学者たちに対して無礼になるでしょう。私は、学問を真摯に究めようとしている学者たちに対して敬意を払ってきました。そして、かれらの研究の実りを私は応用してきました。
私は、エンジニア であって、いかなる意味でも、学者ではない。かつて (30年前、大学院生の頃)、私は、学者になりたいと思ったときもありましたが、20数年前 (30歳以後)、職業として、エンジニア を選んだことに対して--たとえ、それが偶然的な事のなりゆきだったとしても--、いま振り返ってみれば、私は満足しています。
私の仕事は、(ほかのひとが作成した) 「TMD (TM Diagram、T字形 ER図) を (意味論の観点に立って、) 添削する」 ことです。すなわち、(ほかのひとが作成した) 「構造」 を読み切って、その 「構造」 のなかに潜んでいる問題点を感知して、ソリューション を示すことが私の仕事です。そして、この仕事は、「実践」 のなかでしか示すことができない。
そういう仕事を進める際、私は、「構造」 を作成したひとに対して、「(みずからの思い込みを捨てて) データ に訊け」 というふうに助言することが多い。「データ に訊け」 という態度は、荻生徂徠の言う 「格物致知 (カクブツチチ)」 と同じ態度です。そして、徂徠の言うように、「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」 という考えかたを私は信じていて、「構造」 のなかで、「ことば が どのように使われているか」 という点に注意を払って 「構造」 を読みます。
「学問」 というのが、もし、事物のなかに、なんらかの 「法則 (体系、規則など)」 を見出すことであるのなら、私の やりかた は、およそ、「学問的」 ではないでしょうね。逆に、TM (T字形 ER手法) は、「構造」 を読むひとの知力の充実を迫るので、「TMD を読む」 という行為には、読み手に対して、「あるがままの」 現実と対峙できるほどの判断力 (膨大な知識枠) が前提にされていて、なにかしら、専門性に対して 「反逆」 するような性質を帯びています。そして、この点こそ、「生きた」 現実に向かい合うには、モデル を作成するひとに対して、「モデル の文法のみを知っていれば事足りるような」 安直な態度を捨てるように迫ってくる特徴点になっています。ただし、この点は、「構造」 を個性的に読むということではない。システム・エンジニア として 「全的な (すなわち、知力の総体としての) 態度」 を言っているのです。
TMD は、「見て見飽きぬ画のようなもの」(参考) と言っても、比喩ではない。
「情報」 は、「文」 です。「文」 は、 「あや」 です。「あや」 は、個性です。「実践」 というのは、個々の 「事実」 を あるがままに観るしか やりかた はないでしょうね。
ちなみに、徂徠は、世の中の 「物知り」 を罵倒しながら、当時、かれほどの 「物知り」 はいなかったそうです。(参考)
(参考) 「古典と伝統について」、小林秀雄、思想との対話 6、講談社
(この書物に収録されている 「辨明」 から引用しました。)
(2007年 1月 8日)