TM (T字形 ER手法) を作った理由は、「現実世界 (事業過程) を、いかにして (データ 構造として)、コンピュータ のなかに記述するか」 という極々初歩の馬鹿正直な思いからであった。私が、当時、コンピュータ・サイエンス のなかで習得していた技術 (あるいは入手できる技術) を使って、対象を扱おうという考えは、微塵も、なかった。したがって、私は、対象を実証的にも客観的にも見ていたのではなくて、ただただ、鷲掴みにしたかった。
そのために私が採った やりかた は、対象のなかに 「法則」 を発見することではなくて、対象を記述するための 「文法」 を作ることであった。私は、画法・記法 (notation) のみを示すことで満足したくなかったが、事業過程のなかに自然法則に近い 「法則」 があるとも思えなかったので、「『構造』 を記述するための 『文法』 を示す」 ことを考えていた。
事業は 「情報」 が伝達されて営まれている。そうであるから、事業が どのようにして営まれているか を記述するのであれば、私が採るべき やりかた は、事業のなかで伝達されている 「情報」 を対象とした 「言語の学」 でなければならない。ことば (ことば の使用法) は、個人の所有 (使用法) を超えた社会的事実である。事業過程のなかで 「ことば が どのようにして使われているか」 という構造を示すために、TM を整えてきた。
そういう やりかた を進めてきたので、私は、学問的な やりかた に関して、ほとんど、学習しないまま、空手 (くうしゅ) で、「生の」 データ を丁寧に観ながら、「『構造』 を作る規則」 を考えてきた。TM は、一見、数学的な手法のような印象を与えるようだが、数学的 モデル ではない。TM を数学的な観点から検討したのは、後々のこと (「論考」 を執筆したとき) であって、TM そのものは、数学的手法を使って作られた訳ではない。そして、数学的手法を使わなかった点が、TM にとって幸いになった。というのは、「私智ヲ去ル」 には、数学的手法は最大限に役立つのだが、数学的手法では、「真」 とされる前提を建てなければならない。もし、数学的手法を使って モデル を作るのなら、コッド 氏が示した モデル が (現時点では、) 最良だろうが、数学的手法を使ったがために、「並び」 の問題点が出てくるし、(null を扱うために) 4値論理を導入しなければならなくなって、モデル として精緻であっても、われわれが日常のなかで使っている思考法とは、やや、乖離してしまう。
「私智ヲ去ル」 には、(「ことば の概念そのもの」 ではなくて、) 「ことば の使いかた」 に注目する やりかた もある。この やりかた が ウィトゲンシュタイン 氏の やりかた であったし、荻生徂徠の やりかた であった。そして、私も、その やりかた に従った。
私が空手で 「生の」 データに当たって砕けた様は、「黒本」 に記録されている。「黒本」 が示した諸点は、いまとなって、間違いが多い。絶版にした次第である。「黒本」 は、一人の システム・エンジニア が、空手で懸命に思考している傷痕が生々しく遺っている書物であると思う。「黒本」 を訂正した書物が 「赤本」 であるが、「赤本」 も、また、いちぶ、構文論と意味論を ごっちゃにしている記述があるので、訂正しなければならない。
Learning a language is a long way to go.
(参考) 「私智ヲ去ル」 は、荻生徂徠が使った ことば です。
(2007年 1月16日)