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Too much breaks the bag.

 

 「徂徠集」 を読んでいて、「セミナー」 の性質を言い当てている文章に出会い、私の言いたいことを そっくりと綴られているので、以下に引用します。(参考)

    私は講釈が嫌いで、学問をする者には つねづね講釈を聴くなと戒めている。(略)

    私は もともと怠け者だが、人間の心は持っている。学生たちが私に教わろうと来る
    気持ちに酬 (むく) いたくないわけではない。まして わが身を虫の食った書物の
    山の中に捨ててしまったのだから、学問は もとより私の嗜 (たしな) みである。
    怠け者ではあるが、自分の嗜みを拡大し、学生たちと共有することを望まぬはずが
    ない。ただ、講釈が学生たちに少なからぬ害を及ぼすことを以前から深く知っている
    ため、一片の老婆心から口を惜しまずに言うのであって、塾を開いて生計を立てる
    世間の儒者たちから憤慨されるのを顧慮しているひまはないのだ。

    それでも学生たちはみな、講釈と討論とは昔から行われているものだ、とんでもない
    気遣いが勝手なことをほざくと言う。これは、次のことを まったく知らないからだ。
    中華で講釈というのは、こちらの僧たちの説法が、いくらか それに近い。大要は
    一字一句の意味に拘泥せず、道徳を発揚し、仁義を明らかにすることのみをつとめ、
    いろいろと喩えを出したり引用したりして人々に十分納得させ、聞く者が容易に感奮
    興起して自分でも止められないようにさせる、これだけのことなのだ。これは王侯貴人
    または武将など、学問をしていない人に対して説くことはできるが、すぐれた士を養成
    するためのものではない。

    こちらの講学は、それとは違う。一字の解釈から一句の意味、一章の趣旨から一篇
    の大意、公認された注釈と そのほかの注、注釈の間の異同、さらには逸話やら
    美談、文章の来歴に至るまで、およそ本文と関係のあるものは手当たり次第にかき
    集め、店でも開いたかのように並べ立て、数珠玉をつなげるように連続させ、一つ
    でも不備があれば自分の恥と心得、しばらくでも言葉につまれば聴き手が退屈する
    だろうと心配し、声をよくして人の耳を喜ばせようとつとめる。はなはだしいものは、
    ときどき、笑話まで織りこんで居眠りをさまさせ、とかく吝嗇 (けち) な者があれ
    ば、授業料をつり上げて催促する。師匠は仁の道をそこない、弟子は智をそこなう
    わけだが、この風習が ひとたびできると、滔々として引き戻すわけにはいかない。
    (略)

 
 これらの文は、徂徠の著作 「訳文筌蹄せんてい」 の題言のなかで綴られています。「訳文筌蹄」 は、300年弱 前 (正徳元年、1711年) に出版されました。原文は、漢文の白文です (「読み下し文」 ではない)。

 300年前の講釈の様態と、いまの セミナー の事態が、ほとんど同じであるということを知って、私は、ほくそ笑みました。

 「北叟 (ほくそ) 笑む」 という語源は、「北叟」 は 「北の翁」 のことで、「塞翁 (さいおう) の馬」 という故事の塞翁をいい、逃げた馬がもどってきて喜んだことに由来します。「ほくそ笑む」 という意味は、「『しめしめ』 と一人で思わず満足の笑いをうかべる」 ことでしょうね [ 英語で言えば、chuckle to oneself か ]。

 さて、私は、どうして、「しめしめ」 と一人で思わず満足して笑ったと思いますか。想像してみてください。

 
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
    246 ページ - 247 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。

 
 (2007年 3月 1日)

 

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