荻生徂徠は、著作 「学則」 のなかで、以下のように述べています。
(参考)
そもそも六経 (りくけい) は、具体的な事物である。「道」 は そっくり そこに
存在する。「具体的な行為や事件によって示し、深切で明白なものとする」 とは
聖人が空虚な言論を嫌ったことを意味する。(略) 「理解する寸前まで来てもどかし
がる状態でなければ導いてやらず、表現できる寸前まで来て口をもぐもぐさせる状態
でなければ言えるようにしてやらぬ」 (「論語」 述而) とは、弟子のなかに萌芽が
生ずるのを待つのである。知らない者は それを教え惜しみしたのだと思うが、萌芽が
発生すれば その勢いは とどめようがない。外から鍍金 (めっき) をしてやるのでも
なければ、真似をして取って来るのでもない。だから聖人の教えで、学んだものが
先方から来て身につくようになる状態を貴ぶのは、それが実践されることを求める
からである。したがって重要なのは、具体的な事物のほかにない。
老子というのは、説きあかそうと努力した人である。説きあかすときには、一端だけ
が明らかになる。その一つだけをとりあげ、ほかの百が見捨てられてしまう。だから
害となるのである。後世の儒者は老子を否定しながらも その過失を模倣し、しきりに
説きあかしてやまず、名称だけが残って、具体的な事物は亡んだ。仁義道徳の説は
盛んになったが、「道」 は ますます不明瞭となった。
徂徠は、著作を多く遺していますが、それらの著作のなかで、「弁道」 「弁名」 および 「学則」 の三書は、徂徠研究家 (尾藤正英 氏) によれば、徂徠の独特な思想体系が整った形で叙述されているそうです。徂徠の代表作は、「論語徴」 と 「政談」 だそうですが--私は、「論語徴」 を いまだ読んでいませんが、「政談」 の重立った篇を読んでいます [ ただし、現代文での翻訳で ] --、私は、「弁道」 「弁名」 「学則」 および 「徂徠集」 が好きです。「学則」 は、学問をする際の 「心構え」 や学問の やりかた を七項目に分けて門人に教えた著述です。さきに引用した文は、「学則」 の 「三」 として綴られている文 (の翻訳) です。
さて、引用した文は、「格物致知 (かくぶつちち)」 に関する徂徠独特な見識を前提にしています。「「格物致知」 は、朱子学では、ふつう、後天的な知を拡充 (致知) して、あらゆる事物に内在する理を窮めて究極の宇宙普遍の理に達することをいうのですが、徂徠は、そのような考えかたを 「格物窮理」 として非難しました。そういう考えかたでは、物 (事物) と言・辞 (ことば) が離れてしまい、ついには、辞 (ことば) を弄ぶ罠に陥ってしまうと、かれは非難しました。とくに、かれが学んだ儒学では、物そのものが古い時代に亡んでしまい、言・辞のみが遺されている状態なので、かれは、言・辞を徹底的に正確に追究して--その言・辞が使われていた状態にもどして--、物を再現する やりかた を選びました。すなわち、徂徠は、物が そのまま 形を現すという やりかた を追究したのです。「格物」 の 「格」 は、「来」 という意味です。つまり、「格物致知」 とは、かれにとって、物が そのまま 語るということです。それが 「私智ヲ去ル」 ということです。そのために、かれは、「個人の知を前提にして憶測で論を作る」 ことを 「格物窮理」 として非難しました。徂徠にとって、物とは 「六経」--中国で著された経書の 6つ、すなわち、易経・書経・詩経・春秋・礼 (らい)・楽経の総称--でした。まず、この知識がないと、引用文を正確に読めないでしょうね。
「格物致知」 という ことば を聞いて、「悧巧ぶったひと (smart-alec)」 が、「ああ、アレね、『朱子学』 の 『理の窮めかた』 でしょう」 と言っても、的外れにすぎない。
ユーザ の作成した TMD (TM Diagram、T字形 ER図) を私が添削するとき、私は、ユーザ の理解度を観て、理解度に応じて推敲することを、かつて、述べました。TMD を丁寧に読めば、「ユーザ が どのように考えて、『構造』 を組み立てたか」 を見て取ることができます。初級の DA (Data Analyst) が作図した いちぶ を、腕の立つ DA が修正したら、修正された所を すぐに指さすことができます。なぜなら、その所が、ほかの記述に比べて、際立って整えられているから。喩えてみれば、小学生の描いた絵に、おとな が いちぶ 筆を入れた状態になっていて、おとな の筆跡が すぐにわかるのと同じです。
私のほうでは、ユーザ (DA) の才識 (TM の使いかたに関する工夫) が伸びてくるのを待つしかない。勿論、DA の才識を伸ばすために、私は、数々の指導をします。ただし、それぞれの ユーザ (DA) に対する指導は、当然ながら、ユーザ (DA) の才識に応じて、ちがってきます。ユーザ の才識に応じて指導して、そして、ユーザ が、みずから、一歩を進めるように作用するのが コンサルテーション です。コンサルタント は catalyst であるというのは、そういう意味です。人間一般を語り得ても、われわれ コンサルタント がいっしょに仕事をするのは、個々の生身の人間です。そして、「データ そのものに訊きなさい」 というのは、「格物致知」 です。
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
91 ページ - 92 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(2007年 3月 1日)