荻生徂徠は、「答問書」 のなかで、「勇」 について以下のような喩えを述べています。
(参考 1)
人間というものは大方は自分の知らないことには恐れ、慣れないことには用心
するもので、それが人情というものです。例えば船頭が相当な風波でも恐れない
のは 「勇」 に似ていますが、馬に乗せれば恐れましょう。世間で武術の達人と
いうような人でも、行儀作法を きちんとしなければならないような場所に出る
と、たいへん気後れすることがあるのは、みな、自分の知らない、慣れないこと
だからです。また、幼児が昼の明るいうちは遊び慣れていた内庭を、夜になると
こわがるのは、暗くて物が見えないからです。しかし物の理屈を知りさえすれば
こわくないものと思って、理屈を知ろうとばかりすると、知れば知るほど疑いが
増してきて、気づかいが多くなるものです。
ですから理屈を離れて、ただ何となく そのことに慣れるのが一番よろしいと
思います。それも初めの間は こわいのを我慢して それに慣れてしまいますと、
後は用心も こわさも だんだんに消えてゆくのは、物事は慣れると、そのことに
関して よくわかるようになるからです。ですから、慣れないことに気後れがする
からといって、その人が 本来 勇気が不足しているわけではないのです。
「慣れる」 ためには、当然ながら、その事態の渦中に、つねに、いる (be part of it、belong to、involved) ことが要件になります。そういうふうに言えば、「いまさら、当たり前なことを言うな」 と非難されそうですが、うっかりすると、この当たり前のことが無視されてしまうようです。
データベース 設計を実地にやったことのないひとが、データベース 設計に関する書物を 多数 読んで、データベース 設計法の理屈を 「わかったつもり」 になったとすれば、「格物窮理」 の罠に陥った 「悧巧ぶったひと (smart-alec)」 でしょうね。しかし、「悧巧ぶったひと」 が、データベース 設計に対して、「批評」 と称して、戯言を言い散らしていることを、私は 多々 聞き及んできました。
同じように、プログラム 言語の文法を暗記していても、いちども、プログラム を作成したことのないひとを プログラマ とは云わないでしょう。
また、10数年も前に 「芥川賞」 を受賞して、そのあとで、作品を ほとんど執筆していないひとが 「作家 (小説家)」 を称しても、私は苦笑してしまいます。
プロ (professional) の力 (ちから) として問われるのは、つねに、「いまの」 実力です。それが 「現役」 ということでしょう。「巧み (たくみ)」 とは、物を作るうえでの工夫に富んだ さばき・てぎわ のことを云うのですから、事態の渦中に継続して参入して実践し、かつ、工夫を凝らすことでしょう。
荻生徂徠は、著作 「学則」 のなかで、世上有名になった以下の ことば を綴っています。(参考 2)
だから私は、学問をして諸子百家、曲芸 (小さな技能) の士となろうとも、
道学先生となることは願わない。
(参考 1) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
307 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(参考 2) 同、96 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(2007年 3月16日)