私は、TM (T字形 ER手法) が 「知る人ぞ識る」 という やりかた で良いと思っています。TM を使いたいと思うひとが 使えば良いのであって、使いたいと思っていない人たちに対して TM を セールス するつもりは、さらさら、ない。
というのは、社会人になってからの教育というのは、学校での教育とはちがって、じぶんを信頼してくれている人たちに対して指導することだと私は思っているから。私は、荻生徂徠の著作 (「弁道」) のなかで、私の考えに似た以下の文に出会いました。(参考)
だが、孟子になると、相手が うるさくなるほど強引に弁じたてて、それで人を説き
伏せようとした。そもそも言葉で人を説き伏せるのは、相手を心服させられない人間
だ。教育とは、自分を信頼している人に対して施すものだからである。先王治下の
民衆は、先王を信じた人たちであった。孔子の門人は、孔子を信じた人たちであった。
だから教育が彼らの心の中に入りえたのだ。孟子の場合は、自分を信じない人に
対し、自分の言葉によって自分を信じさせようとした。これは戦国時代の諸国遊説と
いう事情のためであり、人を教える正しい方法ではない。
ただ、現代でも、「戦国時代の諸国遊説」 として、あまた多い セミナー のなかで、TM の存在を知ってもらうための 「広告」 セミナー も a neccessary evil として やらなければならないのかもしれない、、、そして、そういう セミナー をやればやるほど、私は虚無感に襲われ、不眠に陥るのを覚悟しなければならないのでしょうね。
「反 文芸的断章」 のなかで、かつて、私は、以下の文を綴りました。
(2005年 3月 1日)
芸術家とは、「理解されない」 という諦念と 「理解されたい」 という願いの はざま
で翻弄されている漂泊の人である。
鑑賞すなわち「間主観的な感応」とは、作者が、作品のなかで、思わず、漏らした
「呻き」を聴く作業である。野晒しに身を呈する--それが、漂泊の性質である。つまり、
鑑賞は--もし、それが、文字通りの作業であれば--、作者が、作品のなかで、描こう
として描き切れなかった際限まで、いっしょに歩み、作者の「呻き」を聴くことである。
この文は、芸術作品を鑑賞するときに、私が感じた気持ちを綴ったのですが、その気持ちを、TM に対しても、私は ひしひしと感じています。
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
116 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(2007年 4月16日)