荻生徂徠は、「答問書」 のなかで、以下のように述べています。
(参考)
なるほど、お言葉どおり、政治の方法には、よい法もあれば、そうでない法もあり
ます。したがって方法の吟味もしなくてはいけないことは確かですが、政治を論じる
人のほとんどが、ただ方法の善悪ばかりを吟味するのは、要するに 「道」 をわきま
えないための間違いと思われます。(略) ですから、方法よりは、それを行なう人物
の如何が もっとも重要なことなのです。たとい方法は悪くても、それを行なう人物
が立派であれば、それ相応の効果があるものです。方法の吟味ばかりして、行なう
人物が悪ければ、何の効果もあげられません。また、行なう人物の如何によって、
同じ方法でも違いが生じます。
どんな名処方でも、用い慣れていなければ、うまく用いることはできにくいものです。
この見解は、「工学的」 な データ 設計法にも当てはまるでしょうね。
データ 設計の モデル (modeling) に興味を抱いている人たちは、往々にして、モデル の精緻さに惹かれてしまい、モデル を吟味ばかりして、みずからが どのくらいの使用力があるのかを度外視してしまうきらいがあるようです。データ 設計の技術・手続きが すべて 自動化されないかぎり、言い換えれば、なんらかの形で、人間が かならず関与するのであれば--したがって、モデル を意味論 (「事実」 との指示規則) の観点に立って 「推敲する」 余地があるなら--、「同じ」 技術を使っても、ひとの実力に応じて、モデル の アウトプット は揺らぎます。モデルが 「一般手続き」 に従って作成されて、だれが作成しても 「同じ」 アウトプット になるのは、構文論 (アウトプット を作る生成規則) の領域においてのみでしょうね。
勿論、構文論を示さない モデル などは、モデル に値しないでしょう。それは単なる記法・画法にすぎない。
さて、モデル に興味を示すひとほど、モデル の使いかたが下手であるというのは逆説ではない。というのは、モデル が意味論をふくんでいるのだから、モデル を使うひとは、モデル そのもの-の学習を早々と修了して、モデル が対象としている実際の事業過程・管理過程を理解できるための 「参照項」 として、管理過程 (購買管理・生産管理・販売管理・労務管理・財務管理) の 「通論的」 な知識を習得することに専念すべきでしょう。
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
311 ページ - 312 ページ。引用した訳文は、中野三敏 氏の訳文である。
(2007年 5月23日)