荻生徂徠は、「『訳文筌蹄 (せんてい)』 の題言」 の中で、以下のように述べています。
(参考 1)
(略) 道は高く深いものであるが、それを実現する言葉は通常の言葉である。
高く深い道というのは、人間の方に存在するのだ。
徂徠が この文で言ったことを 「形式と内容」 という点から考えてみれば、「和歌・短歌・俳句」 を典型的な現象として例示できるでしょう。それらの歌は、確たる形式で記述されますが、詠み手によって、格調が違ってきます。その格調は、詠み手の 「境地」 から生まれます。小学生も (俳句の形式に従えば、) 句を作ることができますが、芭蕉が辿り着いた 「境地」 で歌える訳ではない。
この点を小林秀雄氏は以下のように的確に言い切っています。(参考 2)
私は、詩人肌だとか、芸術家肌だとかいふ乙な言葉を解しない。解する必要を
認めない。実生活で間が抜けていて、詩では一ぱし人生が歌えるなどという詩人
は、詩人でもなんでもない。詩みたいなものを書く単なる馬鹿だ。
良い仕事をするには、みずからの知性・感性を充実することが大切であるという当たり前のことを確認しておけば良い。制度として確立された手続きに従えば、いっぱしに仕事ができるなどという専門職はないでしょうね。
「境地」 は芸術のみに限られた現象ではなくて、工学でも厳然と起こる現象でしょうね。TMD (TM Diagram、T字形 ER図) は、以下の手順で作成されます。
(1) Tentative Modeling (構文論で作成する)
(2) Semantic Proofreading (意味論で推敲する)
TM (T字形 ER手法) は、モデル (modeling) として整えてあるので、構文論 (TM の文法) に従うかぎり、だれが TMD を作成しても、ほぼ、同じ 「構造」 になりますが--、意味論で推敲する段階では、それぞれの DA (Data Analyst) の 「解釈 (『語-言語』 の意味を明らかにすること)」 を免れる訳ではない。
世間では、TM は 「簡単な技術である」 という評価を得て、あちこちで使われていることを、TM を作った本人として私はうれしく感じるいっぽうで、はたして、意味論に対して、当然払われるべき配慮がされているのかどうかを不安に思っています。
データ 設計では、いままで、構文論と意味論が ごっちゃにされてきて、データ 設計が ひどく難しい手続きのように思われてきた事態を憂慮して、私は、構文論と意味論を意識的に切り離して、(論理的意味論の観点に立って、) 構文論を TM として示しました。そして、私が DA に期待した点は、TM で構文論を示したのだから、構文論に対して いたずらに拘泥しないで、意味論のほうに--意味論で推敲するほうに--知力を注いでほしいということでした。もし、私の本意が理解されないまま、TM が使われているとしたら、私は
悲しい。
どんな職業でも、一人前になるには 10年はかかるでしょう。データ 設計でも同じです。構文論 (一般手続きとしての文法) に従って作成された 「構造」 を意味論で推敲するには、DA の精進 (事業過程・管理過程に関する知識習得、知力の充実) がたいせつです。
(参考 1) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
244 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(参考 2) 「アシル と亀の子」
(2007年 6月 8日)