荻生徂徠は、「答問書」 の中で、以下のように述べています。
(参考)
さて聖人の教えは礼と楽以外にはなく、それは風雅で燦然と整ったもの
です。宋学にいうような、心の修業や高大な理屈などは決してありません。
宋朝以後の学者は、実際的な事物を大事にせず、内面的な心性の議論
ばかりをし、礼楽の風雅文采なる姿を払い捨ててしまい、卑俗な姿になって
しまいました。聖人の道は天子の道であることを忘れてしまったので、道理
ばかりを説いて 「聖人になるように努めよ」 と人をさとすことを第一にするの
です。ここから理と非、邪と正の論争ばかりが盛んになってしまいました。
そして、きまりきった議論ばかりで、型どおりになってしまったので、どん
な学問をしても知識・見識が それ以上に広がり進むことはなくなり、ただ
一方的に、強情なばかりになってしまいました。
徂徠は、この文で、以下の 2つのことを述べています。
(1) 実際の事物を軽視して、観念を弄んではいけない。
(2) 杓子定規の型に填 (はま)ってはいけない。
(儒学の歴史のなかで、) 「宋朝以後の学者」 たちが観念を弄んで型にはまってしまい、風雅文采の趣を喪ったと、徂徠は非難しています。
さて、徂徠が 300年前に非難した事態が、いまでも、われわれ システム・エンジニア の世界で起こっているようです。実際の事業過程・管理過程を正確に観ないで、モデル遊びに夢中になって、デザイン・パターン を事業過程・管理過程に適用しようとしている様が、まさに、徂徠が非難した事態と同じでしょうね。
「道理ばかりを説いて 『聖人になるように努めよ』 と人をさとすこと」 を徂徠は非難しています。現代なら、さしずめ、「第一級の SE に学べ」 という ミーハー 本などは、徂徠の非難の的になるでしょうね。私も、そういう類の書名を目にすると、吐き気を覚えます。
もし、モデル が正当なモデルであれば--私は、この 「モデル」 という用語の代わりに、「学問」 という用語を使っても良いのではないかと思っていますが--、限られた区域のなかで、事物・事態が起こる前提条件と、事物・事態が起こる推論を示しているにすぎないでしょう。あるいは、事物・事態が そうであるための必要十分条件 (necessary and sufficient condition) を整えていると言っても良いでしょう。そこでは、つねに、「真」 とされる前提が定立されなければならない。妥当な「構造」 は、「真」 とされる・いくつかの選ばれた前提のうえで充足状態にあるという当然のことを理解していれば、それで良い。しかし、この当然のことを忘れて、「真」 とされる前提を無視して、「構造」 のみを鵜呑みにした 「パターン 症候群」 が、最近、増えてきていると思うのは、私の思いすごしかしら、、、。
(参考 1) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
341ページ。引用した訳文は、中野三敏 氏の訳文である。
(2007年 7月23日)