荻生徂徠は、「答問書」 の中で、以下のように述べています。
(参考)
ともかく、国天下を治める方法を道というのを嫌う、誤った心持は、礼楽
刑政を何か粗雑なものと考え、本当の道とは非常に精微なものと思うところ
に病根があるのです。道には精粗の差もなく、本も末もなく、「論語」 に
「一以て之を貫く」 (里仁) とあるとおり渾一なものです。それなのに精微
を貴んで粗を賤しむのは、仏家や老荘家の影響の名残りといえましょう。
徂徠の この言は、今風に言えば、「モデル 遊び」 を非難した言でしょうね。
私 (佐藤正美) は、エンジニア なので、対象として具体的な事物・事象を重視する性質が強いのかもしれないのですが、「『事実』 (現実の事態) を軽視して、『モデル』 (頭のなかで作った構成) を重視する」 態度を嫌っています。私は、徂徠のいう 「格物致知」 を信奉しています -- ただし、朱子学のいう 「格物致知」 ではない点に注意されたい (2007年 3月 8日付け 「反 コンピュータ 的断章」 を参照されたい)。
モデル は、頭のなかで描いているかぎり、たとえ、それが完全性を揃えていたとしても、「ききめ (有効性)」 を実証してはいない。モデルが、「現実の事態を構成した」 定式であるならば、かならず、現実の事態との相互作用のなかで 「ききめ」 を問われます。
私は、モデル を研究している theoretician に対して、「モデル の 『ききめ』 を実証する」 ことまでをもとめない。なぜなら、かれらの仕事は、モデル に関して理論の観点から検証することだから -- そして、モデル を定立して、かつ、それを検証するには、長い年数と多大な労力を費やすので。したがって、理論的に検証された モデル の 「ききめ」 を実証する職責は、practitioner のほうにあると私は思っています。ゆえに、practitioner は、或る程度、学問にも通じていなければならないでしょうね。その戒めを 本 ホームページ の 「思想の花びら」 のなかで引用しました (2007年 8月 1日付)。
しかし、わたくしは学殖なきを憂うる。 (森鴎外)
そして、ギットン 氏の以下のことばを、かつて、「思想の花びら」 のなかで引用しました (2002年 6月30日)。
思考には骨組みとなるような体系が必要であるが、しかし人間が
存在の体系と等しくなることは、おそらく不可能であって、真の
救いは体系よりも方法を選ぶことであろう。
ここでいう 「方法」 とは、学問で使われている推論法と思って良いでしょう。
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
353ページ。引用した訳文は、中野三敏 氏の訳文である。
(2007年 8月 8日)