このウインドウを閉じる

When sorrow is sleep, wake it not.

 

 ウィトゲンシュタイン 氏の 「哲学探究」 は、アフォリズム のような文が羅列されていて、ひとつの体系として整えられてはいない。しかし、全体として壮大な思想を感知できます。かれの すごさ は、考える際に、鋭い着想を綴ろうとか、これは つまらない考えかただとか、そういう意識をもちあわせていなかったという点にあるのではないかしら。かれは、つねに、真摯に考えました。かれは、みずからのうちに生じる思考を正確に凝視して記しました。

 そして、かれは、同じ テーマ を 幾度も くり返して推敲しました。推敲したとき、「S」 という略語が、たまに、書き込まれてあります--「S」 は、「これは、まずい」 という意味だそうです。

 かれの前期哲学の代表作 「論理哲学論考」 も アフォリズム のような文で綴られていますが、「論理哲学論考」 は、最後に綴られた文 「語り得ぬことについて沈黙しなければならない (What we cannot speak about we must pass over in silence.)」 に向かう一筋の道のように、それぞれの文は配置されています。しかし、「哲学探究」 では、1つの意見に向かって整えられた 「構成」 がない。かれ自身は、当初、「構成」 しようと試みたそうですが、終いに断念したとのことです。

 「論理哲学論考」 は、喩えれば、「氷で作られた美しい宮殿」 のような作品ですが、「哲学探究」 には、そういう美しさはない。「哲学探究」 の文も推敲されていますが、「生の思考」 を刻み込んだ文です。私は、「論理哲学論考」 を初めて読んだときに--19才のときですが--、揺さぶられるような感奮を覚えましたが、「哲学探究」 を初めて読んだときには、かれの意見を掴み難く、戸惑いを感じました。

 しかし、いま、私は、当時の感想とは逆の意見を抱いています。すなわち、「論理哲学論考」 から、なんらかの思考を促す (seminal な) 種子を得ることはできないけれど、「哲学探究」 を読めば、「考える」 という行為が どういうことなのかを直知することができます。言い換えれば、「論理哲学論考」 は、「どういう対象が哲学の対象であるのか」 を示してくれていますが、哲学が、もし、「『考える』 とは、どういうことなのか」 ということを検討する学問であるならば、「論理哲学論考」 は、いくつかの (ロジック に関する) 技術を示していますが、あくまで、「思考が対象とする (対象にできる) 範囲」 を示したにとどまるでしょうね。いっぽう、「哲学探究」 は、かれが取り組んだ課題に対する かれの思考 (思考の足跡) を 「生々しく刻み込んだ」 記録です--日記 (diary) とか ドキュメンタリー とも云って良いでしょう。

 ウィトゲンシュタイン 氏の哲学は、「蝿取り壷に陥った蝿」 を救う 「治癒の哲学」 と云われていますが、「哲学探究」 は、私にとって、「蟻地獄」 のように思われるのですが、、、「哲学探究」 のなかに入ったら、そこから這いでることは、なかなか、できない--たとえ、かれの考えかたに対して、ときどき、「陰鬱さ」 を感じたとしても。私は、「哲学探究」 を、感謝しつつ、かつ、怨みつつ、読み続けています。

 
 (2007年10月 1日)

 

  このウインドウを閉じる