荻生徂徠は、儒学者だったので、「道」 を追究することを、生涯の目的としていました。そして、かれは、「道」 を以下のように説き明かしています。
(参考)
「道」 とは、総合的な名称である。礼楽刑政という、すべて先王が確立したものを
とりあげ、一括して名づけたものである。礼楽刑政を離れて、ほかに 「道」 という
ものがあるわけではない。
徂徠の説を現代風に言えば、「道」 という形而上学的概念は、「制度」 という具体的な手続きで示されている、ということでしょうね。したがって、「道」 という ことば のみを対象にして、ことば を弄してはいけない、というのが徂徠の考えかたです。
私は、徂徠の この考えかたに共感して、徂徠を愛読してきました。というのは、私は モデル を作る仕事をしていて、「モデル も 『道』 に似ている」 ことを実感してきたから。「モデル は、(単なる記法 [ diagramming ] でなくて、) 『一般手続き』 として示されていなければならない」 と私は思っているから。否、「私が思っている」 という言いかたは僭越な言いかたであって、そもそも、モデル の存在性は、「計算可能性 (証明可能性)」 として示される手続きであるというのが、学問 (数学) の考えかただから。したがって、モデル は、学問上、論理的意味論に属します。
私は、モデル を、文字通りに、論理的意味論として考えていますが、記述的意味論を排除するつもりはない。ただ、記述的意味論で示された 「構成」 が、無矛盾性・完全性を、いかにして、実現しているかを示してくれないかぎり--言い換えれば、記述的意味論で記述された 「構成」 が妥当であることを証明してくれないかぎり--、私は、記述的意味論で示された 「構成」 を信用しない、ということです。少なくとも、コンピュータ のなかに実装する 「構成」 として、無矛盾性・完全性を証明されていない 「構成」 は信用できない、ということです。それは私の独断ではなくて、もし、記述的意味論を使って事業過程を分析して、その分析を基礎資料にして設計図を作るのであれば、設計図が 「真」 であるためには、分析図が 「真」 でなければならないと要請するのは、極々、当然でしょう。
そして、モデル は、深遠な哲学を前提にして作られていても、かならず、単純な手続きとして示されていなければならない、というのが徂徠の意見です。
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
102 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(2007年12月 8日)