荻生徂徠は、儒学者だったので、「道」 を追究することを、生涯の目的としていました。「道」 は、具体的に、「礼楽刑政」 の制度として実現されてきて、「道」 を作った人物──先王たち (唐堯・虞舜・兎王・湯王・文王・武王・周公の七人)──が 「聖人」 である、と徂徠は考えています。徂徠は、「道」 に関して、多くの記述を遺していますが、それらのひとつとして、以下の記述があります。
(参考)
古代では 「道」 のことを 「文」 といった。礼楽の意味である。物が入りまじる
にを 「文 (あや)」 というのであり、一言で説明しつくせるものではない。昔は
儒者の 「道」 は 「広いが要点に乏しい」 (「史記」 太史公自序) と言われた
が、「道」 の本来の姿はそうしたものなのだ。ところが後世の儒者は簡明を
貴び、要点を貴んでいる。そもそも 「直情径行は夷狄 (いてき) の道」
(「礼記」 檀弓 [ だんぐう ]) であり、先王の 「道」 は、そうではない。
「要するに」 というふうに「一言で説明する」 ことができる事態は、自然法則のように、いくつかの命題 (前提) から他の命題が導かれる (p → q) ことを主張するとき、そして、そのときに限りられます。言い換えれば、しかじかの 「原因」 は、かならず、かくかくの帰結を生じるときに限られます。しかし、「文 (あや)」 が織りなす現象では、かくかくの行為は、しかじかの 「理由」 で起こったと推測することは、「対偶 (¬q → ¬p)」 を考えることができない。なぜなら、(「原因」 を、p → q のなかで、否認することはできないけれど、) 「『理由』 を否認する」 ことができるから。したがって、ひとの数にひとしい数の 「理由」 があると思っていいでしょうね。そういう事態のなかで、「道」 を具体的な制度 (礼楽刑政) として実現する人物は、「超人的な」 ちから をもった人物です。しかも、「聖人」 といえども、ひとりが独力で、そういう制度を作ることはできないでしょう。「道」 は、「聖人」 たちが、代々、整えてきたのであって、そういう 「道」 を、「一言で説明する」 ことなど できる訳がない。
そういう事態に対して、今風に言えば、なんらかの法則 (あるいは、「型」) を適用して、「事態を 『簡明に』 述べよう」 とする弊害が、徂徠の言う 「習之罪」 です。
さて、システム・エンジニア が、事業過程を観て、「事業過程 (システム) を 『設計する』」 というのは、私から観れば、「自惚れ」 にしか聞こえない。そういう態度は、徂徠風に言えば、「『聖人』 を超えようとする」 自惚れでしかないでしょうね。なぜなら、「文 (あや)」 の入り混じる 「事業過程 (システム) を 『設計する』」 ためには、事業過程を知り尽くして、かつ、コンピュータ の技術を知っていなければならないから。
われわれ システム・エンジニア ができることは、せいぜい──「せいぜい」 と言っても、「最大限のちからを尽くして」 という意味をふくんでいるのですが──、事業過程のなかで伝達されている 「情報」 に対して なんらかの 「構造」 を与えることくらいでしょう。しかも、「情報」 に対して なんらかの 「構造」 を与えることは、モデル を作ることなのだから──ここでいう 「モデル」 とは、「パターン」 とか 「型」 ということではなくて、「事実を記述する」 文法のことを云いますが──、当然ながら、モデル に関する知識・技術を習得していなければならないでしょう。モデルは、現実的事態を前提にしているのであって、その逆は 「真」 ではないという当然のことを忘れて、パターン・シンドローム に陥っていることを 「習之罪」 と云って良いでしょう。
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
118 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(2007年12月23日)