荻生徂徠は、儒学者だったので、「道」 を追究することを、生涯の目的としていました。「道」 は、具体的に、「礼楽刑政」 の制度として実現されてきて、「道」 を作った人物──先王たち (唐堯・虞舜・兎王・湯王・文王・武王・周公の七人)──が 「聖人」 である、と徂徠は考えています。そして、徂徠は、「理」 に関して、以下のように述べています。
(参考)
「理」 には形がないので規準もなく、彼らが中庸だと考え、当然に おこなわれる
べき理だとしているものは、その人の見解であるにすぎぬ。見解は人ごとに違う
ため、人ごとに それぞれ自分の心で、これが中庸である、これが当然に おこな
われるべきであると考えるようになるからという、ただそれだけのことだ。人の世
は、北から見れば すべてが南となる。どこに規準をおいたらよいのか。
そして、徂徠は、宋儒の説 (「天理人欲」 という説) を精緻ではあるが規準がないとして退けています。徂徠の云う規準が 「先王の道 (具体的には、『礼楽刑政』 の制度)」 であることは明らかですね。
亀井勝一郎氏が遺した アフォリズム のなかに、徂徠と同じような趣の・以下の一句があります。
一体、神は存在するのか。仏は存在するのか。その証明は 「聖書」 と 「仏典」
のなかにある。神よりの、仏よりの、「言葉」 のなかにのみある。ただそこにのみ
あって、宗派にはなく、宗論にもない。「言葉」 と対決すべきであり、死ぬまで
対決すべきである。
これらの考えかたを 「(データベース 設計の) モデル」 に適用してみるなら、この 「規準」 は、勿論、ベスト・プラクティス なんぞや パターン などに在るのではないでしょうね。モデル の 「文法」 が 「規準」 なのです。すなわち、なんらかの形を構成する無矛盾な・完全な 「生成規則 (手続き)」 が 「規準」 であるという当然のことを踏み外さないようにすれば、「我流」 に陥らないでしょう。「モデル」 は、「アルゴリズム (あるいは、計算可能性とか証明可能性を具体化する有限回の演算)」 と同義です。
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
119 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(2008年 1月 8日)