荻生徂徠は、儒学者だったので、「道」 を追究することを、生涯の目的としていました。「道」 は、具体的に、「礼楽刑政」 の制度として実現されてきて、「道」 を作った人物──先王たち (唐堯・虞舜・兎王・湯王・文王・武王・周公の七人)──が 「聖人」 である、と徂徠は考えています。そして、徂徠は、「道」 に関して、以下のように述べています。
(参考)
理を極めることの弊害は、天も鬼神も いずれも畏 (おそ) れるに足らぬもの
とし、自分が傲然 (ごうぜん) として天地の間に ただ一人立つと思うところ
にある。これが後世の儒者に共通の欠陥であり、天上天下唯我独尊 (てんじょう
てんげゆいがどくそん)[ 釈迦の語 ] と同じではないか。それを茫々とした宇宙
の、はたして どこに窮極があるのか。それを窮めつくせる理があるのか。自分は
知りつくしたと思うならば、妄想にすぎぬ。だから彼らの述べる説は、すべて表面
は先王・孔子を尊びながら、かげでは その教えにそむいてしまっている。自分
たちでは古代の聖人が まだ明らかにしなかった点を明らかにできたと思っている
が、先王・孔子に勝って、その上に出ようとするものだということに気づかない
のだ。そもそも聖人の教えは完全なものである。それに勝って上に出ることが
できるものか。総体に聖人が言わなかったことは、言わないのが当然のことなの
だ。もしも言うべきところがあれば、先王・孔子が すでに言っているはずで、
明らかにせぬままにおき、後世の人に期待するわけがない。彼らは やはり、
考えが足りないのだ。
私 (佐藤正美) は、この文に対して、いちぶ反対し、いちぶ賛同します。
私が反対する点は、以下の点です。
そもそも聖人の教えは完全なものである。それに勝って上に出ることができるもの
か。総体に聖人が言わなかったことは、言わないのが当然のことなのだ。もしも
言うべきところがあれば、先王・孔子が すでに言っているはずで、明らかにせぬ
ままにおき、後世の人に期待するわけがない。
この文が収められている同じ著作 「弁道」 のなかで、徂徠は、以下のようにも綴っています──以下に引用する文は、以前、「反 コンピュータ 的断章」 のなかで記載しました。
ただ子思・孟子は自説を守ることにのみ気を取られ、時代の弊害を正すことにのみ
気がはやり、抑揚の激しい表現をするうちに、古代の正しい意味が そこから伝わら
なくなる結果を生じた。嘆かわしいことである。
さて、徂徠は、聖人の教えを 「完全」 であるとして、「聖人が言わなかったことは、言わないのが当然のことなのだ」 と言っていますが、徂徠みずからが 「時代の弊害を正すことにのみ気がはやり、抑揚の激しい表現をするうちに」 一歩踏み外したようですね。というのは、もし、言説 a が環境 A のなかで正しいとしても、環境が変化すれば、言説 a を継続適用することが妥当ではないでしょう。もし、環境の変化が──変化した環境を 環境 A’ としましょう──環境 A の単純拡大であれば、言説 a を環境 A’ に適用できるように工夫するのが後世の責務だと私は思います。もし、環境の変化が環境 A を否定するような・新たな環境 (環境 B) であれば、環境 B の正当性を検討して、環境 B が正当であれば、言説 a は捨て去られることになるでしょう。では、環境 A’(単純拡大、あるいは改良) および環境 B (否定) が 「正当」 であるかどうか を、どのようにして判断できるのかという点は、(「判断」 は数々の変数をふくんでいて、様々な観点から考慮されなければならないので、) 本 エッセー では扱い切れないので、「言わないまま」 にしておきましょう。
私が徂徠に賛同する点は、以下の点です。
自分は知りつくしたと思うならば、妄想にすぎぬ。
私は、徂徠の言を、もっと、烈しく記述しても良いと思っています。すなわち、「たとえ、考える対象範囲を限ったとしても、自分は対象を知りつくしたと思うならば、妄想にすぎぬ」 と。
われわれの 「判断」 は、「一定の環境変数の限界のなかで合理的である (『制約された合理性』)」 であって、「単純な (理想的な) 合理性」 ではないという当たり前のことを心得ていれば宜しい。したがって、学問では、問題を定式化する際、かならず、「目的関数」 といっしょに 「制約条件」 を記述します。
そして、われわれ凡人が、もし、「天も鬼神も いずれも畏 (おそ) れるに足らぬものとし、自分が傲然 (ごうぜん) として天地の間に ただ一人立つ」 というふうに思いこんでいるなら、手前味噌を並べた口上にすぎない。「自分が天地の間に ただ一人立つ」 と思うことは正しい。しかし、「自分が傲然として天地の間に ただ一人立つ」 と思うなら、一歩通り越してしまっている。
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
121 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(2008年 1月16日)