荻生徂徠は、儒学者だったので、「道」 を追究することを、生涯の目的としていました。「道」 は、具体的に、「礼楽刑政」 の制度として実現されてきて、「道」 を作った人物──先王たち (唐堯・虞舜・兎王・湯王・文王・武王・周公の七人)──が 「聖人」 である、と徂徠は考えています。そして、徂徠は、「道」 「礼」 に関して、以下のように述べています。
(参考)
何か一つのことをし、一つの発言をしようとすることがあれば、礼に照らして
考え、それが先王の 「道」 に合うかどうかを知る必要がある。だから礼という
言葉は、具体的なものである。先王の 「道」 の具体化されたものである。
とはいえ、「礼」 を守ることがきびしすぎ、それに 「楽」 を配合しなかった
ならば、とうてい楽しみつつ徳を生み出すことはできまい。だから楽は、徳を
生む方法である。天下の人々をはげまし、自分の徳をそだてて大きくさせる
には、楽にまさるものはない。
ここでいう 「楽」 は、「徳」 とむすびついているので、単に 「欲望が満たされた 『快楽』」 ではないでしょうね。そして、「楽」 は、「やすらかで、たのしいこと」 という意味のほかに、「好むこと、愛すること」 もふくんでいます──「楽といふは このみ愛する事なり」 (徒然草)。
「『礼』 『楽』 が 『誠』 と混合した状態」 が職人 (専門家) の 「徳」 だと私は思っています。「礼」 を規範にして仕事を 「誠」 に行い、仕事のなかに 「楽」 を感じれば、職業人として幸せではないでしょうか。そして、そういう状態にいることを 「徳」 というのでしょうね。「徳」 が 「礼」 を前提にしていれば──「礼」 は 「共有」 された規範だから──、「徳」 は、辺 (あた) りを照らすのでしょうね。
孔子曰く、
徳孤ならず必ず隣あり (「論語 (里仁)」)
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
124 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(2008年 1月23日)