荻生徂徠は、儒学者だったので、「道」 を追究することを、生涯の目的としていました。「道」 は、具体的に、「礼楽刑政」 の制度として実現されてきて、「道」 を作った人物──先王たち (唐堯・虞舜・兎王・湯王・文王・武王・周公の七人)──が 「聖人」 である、と徂徠は考えています。そして、徂徠は、「道」 に関して、以下のように述べています。
(参考 1)
「道」 とは総合的な名称である。人がそこを経由することがあるため、こう言う。
これは古代の聖王が樹立したものであり、天下後世の人々にここを経由して
行動させ、自分もここを経由して行動するようにした。たとえば人々が道路を
通って行くようなものであるから、「道」 という。孝悌仁義から礼楽刑政に至る
まで、一つに合わせてこの名がつけられる。だから 「総合的な名称」 というの
である。
「わが道は一つのことによって貫かれる」 (「論語」 里仁) と言うが、何によって
貫かれるのかは言っていない。言葉では言えないからである。言葉で言えない
から、先王は言 (詩書をさす) と事 (礼楽をさす) とを樹立して守らせた。
つまり詩書礼楽がその教えだったのである。だから顔回 (孔子の高弟) ほどの
知者でさえ、博 (ひろ) く文を学び、礼によってしめくくり、そこではじめて孔子の
立場の高さがわかった。もしも道が一言ではっきりさせられるものなら、先王や
孔子がすでに言っていたはずである。絶対に一言で言える道理がない。
私は、これらの文を読んだとき、西行 (歌人) の ことば を思い出しました。
西行が源頼朝と会ったときに、頼朝が、歌のことを訊ねたら、西行は、以下のように言ったそうです (「吾妻鑑」 に記述されています)。
「全ク奥旨ヲ知ラズ」
歌の名人にして この言あり。
ところが、学習を進めて知識が増えてくると、「道」 には、なにかしら、ひとつの 「本質 (あるいは、法則)」 があって、その 「本質」 さえ掴めば、すべての現象を語り尽くすことができると錯覚してしまう危うさがあるようです。そういう態度を、徂徠は 「習之罪」 として非難しています。
われわれ システム・エンジニア の仕事でも、そういう 「習之罪」 に陥っている人たちが、多数、います。たとえば、生産管理の システム を多数作ってきたというだけのことが、生産管理を知り尽くしているという錯覚になってしまっている システム・エンジニア を私は多数観てきました。もし、そういう単純な絵空事が成立するならば、生産管理の事典を読んで生産管理に関して豊富な知識を習得して生産管理の システム を いくつか作ったら、生産管理の 「本質」 を掴むことができるということになるでしょう。そして、もし、そうであれば、生産管理に関して、ひとつの 「本質」 さえ掴めば、生産管理のすべての手続きを導出できるでしょう。しかしながら、学問 (数学) は、以下の点を われわれに示しました。
「『決定可能』 を決定する」 プログラム を作ることができない。
システム・エンジニア であれば、この命題が (チューリング・マシーンを使った) 「停止問題」 であることを知っているでしょう。これは、純粋に 「アルゴリズム」 の問題です。もし、システム・エンジニア が、この命題を知っていながら、「ひとつの 『本質』」 などということを言っているのであれば、私は、そのひとの良心を疑います。そして、もし、システム・エンジニア が、この命題を知らないなら、私は、そのひとの知性を疑います。
和歌は、定型詩です──「形式」 を守らなければならない。
さて、「ひとつの 『本質』」 などという錯覚を捨てたときでも、和歌には、善し悪しがあるようです。では、その善し悪しは、いったい、どういう点にあるのかしら、、、「和歌は 『芸術』 なのだから、ロジック で語ることができない」 ことくらい、芸術に疎い私にもわかっていますが、「限られた (きめられた) 短い詩型を自由と感じるかどうか」 が 「楽」 ではないかしら(参考 2)。「楽」 が 「境地 (或る段階に達した心境)」 ではないかしら。だから、ことば では言い表すことができないのでしょうね。
澤木興道老師 (禅僧) 曰く、
「悟った」 と言えば、一歩 余計じゃ。 「悟っていない」 と言えば、一歩 足らぬ。
(参考 1) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
133 - 134 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(参考 2) 「楽」 については、「反 コンピュータ的断章」 2008年 1月23日を参照されたい。
(2008年 2月 1日)