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To wipe up the sea with a sponge.

 

 「徂徠集」 のなかに (「入江若水に与える書」)、以下の文があります。(参考)

     うけたまわるところでは、ある人が、私の序文の中に語順を誤った所が
    あると言って私を非難したそうですが、これは もちろん下等な人間の言う
    ことで、腹を立てるほどのものでもありません。その一言だけで、至らな
    さが暴露されているくらいです。文字の意味は たしかに面倒ですが、
    文法となりますと、もともと天然の法則があって、一度その ツボ をおさ
    えれば、法則に そむこうとしても、できるものではありません。口に
    まかせてしゃべり、筆にまかせて書き、どのようにしても、すべて正しい
    文法に合致します。語順を どうしようなどと、何も思案することはあり
    ません。

     その分れ目のもとは、和語によって漢語を類推するか、漢語によって
    漢語を理解するかにあります。「ある人」 の一派は、近世の精密な学問で、
    読書法においても隅から隅までつつきまわすようにしていますが、もう一歩
    及ばないのは、やはり和訓から入っているところにあるのです。つまり、
    どうしても和語の枠から出ることができません。文章を書くにも、一字一句、
    すべて古人の文章を持ち出し、例だの格だのと言って、お手本を丸うつしに
    しているのでしょう。古人の書物を全部あさることはできませんし、現代の
    書物も窮極がありません。つまりは学問が自在の境地に達しない限り、
    とうてい一語一語誤りがないようにできないのです。

 「意味」 を伝えるためには、合意された 「文法」 がなければならないのは当然なのですが、さて、文中の 「漢語」 を、現代で言えば、「英語」 として考えて──システム・エンジニア の仕事で言えば、「英語の言語体系のなかで生まれた モデル」 として考えて──、文中の 「和語」 を 「それらの モデル の和訓」 として読み替えてみれば興味深いでしょう。

 「モデル」 は、そもそも、そういう自然言語を離れて、ロジック (論理学、数学)を使って構成される装置 (しくみ) です。とすれば、「ロジック の文法」 がない画法など 「モデル」 に値しないでしょう──画法が、どれほど、隅から隅までつつきまわすように描かれていたとしても。

 


(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
    281 ページ - 282 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。

 
 (2008年 3月 8日)

 

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