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Don't make the foot the head.

 

 Davidson D. 氏は、かれの論文 「真理と意味」 のなかで、以下の文を綴って
います。(参考)

    私が考えている意味理論の仕事は、ある言語を変えたり、改善したり、
    あるいは改変したりすることではなくて、それを記述し理解すること
    だからである。

    要求されることの多くは、通常の英語を あれこれの標準的な表記に直す
    際に現在われわれがうまくやっていることを、可能な限り機械的に行なう
    ということである。

 
 私が TM (T字形 ER手法の改良版) を整えたときに、やはり、Davidson が記 (しる) した点を強く意識しました──当時は、いまだ、Davidson の著作を読んでいなかったのですが。Davidson は、「意味 (meaning)」 そのものを信用していない。そのために、かれは、「意味」 の代わりに、(タルスキー が示した 「真理条件」 を前提にした) 「規約 T」 という 「真理条件」 を示しました。この点では、TM も同じ手続きをとっています──というのは、TM では、「意味」 を確認する際、「『L-真』 → 『F-真』」 という手続きをとっているから。

 Wittgenstein は、「論理哲学論考」 を記したとき、「意味の対応説」 に立って、「真理条件」 を験証する手段として 「真理値表」 を作りました。この時点で、かれの考えかたは、タルスキー の考えかたに似ていました。しかし、Wittgenstein は、その後、「意味の対応説」 とは違う 「意味の使用説」 を 「哲学探究」 のなかで示した──「『意味の対応性』 を否認した」 と綴っていない点に注意してください。私 (佐藤正美)は、かれが 「意味の対応説」 を完全に否認したと思っていない。「意味の対応説」 は、「意味の使用説」 のなか──かれが示した 「言語 ゲーム」 のなか──に包摂されていると私は判断しています。とすれば、「『意味』 の構成」 を記述するのであれば、手続きは、(Wittgenstein の書物で言えば、) 逆になって、「『意味の使用説』 → 『意味の対応説』 として考えるのが良いと私は判断します。言い換えれば、「『合意』 → 『L-真』 → 『F-真』」 という手続きが妥当であると思います。そして、この考えかたをとれば、当然ながら、「『L-真』 → 『F-真』 では、「規約 T」 (真理条件) を使うでしょう。Davidson の考えかたも、そういう考えかたです。私が 「赤本」 のなかで、以下の文を綴った理由を考えてみてください。

    「ことばの意味」 が 「合意・同意・規則 (事業過程に関与している人たち
    が同じ 「反応と適用」 を示せば、「ことばの意味」 が成立している、と
    いう考えかた) を前提にしていれば、記号と単語のあいだに指示関係
    (真理条件) を適用することに対して、筆者は躊躇いはない。

 
 ただし、この文のなかの 「記号と単語」 は、正確には、「事態と文」 というふうに訂正しなければならないでしょうね。

 
(参考) 「真理と解釈」、野本和幸 訳、勁草書房、18 ページ。

 
 (2008年 5月 1日)

 

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