小林秀雄 氏 (文芸批評家) は、「西行」 という評論を綴っています。この評論は、かれの数多い評論のなかで、私の大好きな評論の ひとつです。
小林秀雄 氏は、「西行」 の書き出しで、西行のことを 「不可説の上手なり」 と言った後鳥羽院御口伝を引用して、以下の歌を──「三夕の歌」 のひとつとして、西行の有名な歌を──引例しています。(参考)
心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕ぐれ
そして、この歌に関して、小林秀雄 氏は、以下の批評を綴っています。
この有名な歌は、当時から評判だったらしく、俊成は 「鴫立沢のといへる心、
幽玄にすがた及びがたく」 という判詞を遺している。(略) 俊成の自讃歌
「夕されば野べの秋風身にしみてうづらなくなり深草の里」 を挙げれば、
生活人の歌と審美家の歌との微妙だが紛れ様のない調べの相違が現れて
来るだろう。定家の 「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の
ゆふぐれ」 となると、外見はどうあろうとも、もはや西行の詩境とは殆ど関係
がない。新古今集で、この二つの歌が肩を並べているのを見ると、詩人の
傍で、美食家がああでもないこうでもないと言っている様に見える。寂蓮の
歌は挙げるまでもあるまい。三夕の歌なぞと出鱈目を言い習わしたもので
ある。
西行の歌のすばらしさは、表現法の新しさや或る芸術味にあるのではなくて、「放胆に自在に、平凡な言葉も陳腐な語法も平気で馳駆 (ちく)」 して、「自ら頼むところが深く一貫していたからである」 と小林秀雄 氏は批評しています、そして、西行の歌は、思想詩であって、心理詩ではないと、小林秀雄 氏は判断しています。「彼の優雅は芭蕉の風雅と同じく、決して清淡という様なものではなく、根は頑丈で執拗なもので」 「如何にして歌を作ろうかという悩みに身も細る想いをしていた平安末期の歌壇に、如何にして己れを知ろうかという殆ど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである」 と。
小林秀雄 氏は、西行の作歌態度を想像して、「彼は巧みに詠もうとは少しも思っていまいし、誰に読んでもらおうとさえ思ってはいまい。『わが心』 を持て余した人の何か執拗な感じのする自虐とでも言うべきものが よく解るだろう。自意識が彼の最大の煩悩だった事が よく解ると思う」 と綴っています。「彼は、歌の世界に、人間孤独の観念を、新たに導き入れ、これを縦横に歌い切った人である。孤独は、西行の言わば生得の宝であって、出家も遁世も、これを護持する為に便利だった生活の様式に過ぎなかったと言っても過言ではないと思う」 とも綴っています。
そして、評論の最後のほうで、西行の以下の ふたつの歌を引例しています。
風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ
「風になびく富士の」 の歌を西行は自讃歌の第一に推したという伝説があるそうですが、小林秀雄 氏は、その伝説を信ずると言い切って、「ここまで歩いて来た事を、彼自身はよく知っていた筈である。『いかにかすべき我心』 の呪文が、どうして遂にこういう驚くほど平明な純粋な一楽句と化して了ったかを」 と 推測しています。そして、「個 (己れ)」 を起点にして歩み、「個」 を問い続けた西行が、ついには、「個」 を脱落した域に入ったことを、小林秀雄 氏は、以下のように的確に撃ち抜いています。「一西行の苦しみは純化し、『読み人知らず』 の調べを奏でる」 と。
私 (佐藤正美) には、西行の生きかたと ウィトゲンシュタイン の生きかたが、妙に重なって映ります。
(参考) 本 ホームページ の 267 ページ 「古今和歌集・新古今和歌集」 を参照されたい。
(2008年 5月 8日)