小林秀雄 氏 (文芸批評家) は、「実朝」 という評論文を綴っています。そして、「実朝」 は、小林秀雄 氏の評論文のなかでは、めずらしく長めの文です。小林秀雄 氏は、その著作のはじめの所で、以下のように綴っています。
(参考 1)
僕等は西行と実朝とを、まるで違った歌人の様に考え勝ちだが、実は非常によく
似たところのある詩魂なのである。
実朝と西行との共通点は、小林秀雄 氏が綴った文のなかから探すとすれば、以下の文にあると私は思っています。(参考 2)
何流の歌でも何派の歌でもないのである。又、殊更に独創を狙って、歌がこの様
な姿になる筈もない。不思議は、ただ作者の天稟のうちにあるだけだ。いや、この
歌がそのまま彼の天稟の紛れのない、何一つ隠すところのない形ではないの
だろうか。
「実朝」 のなかで、小林秀雄 氏は、西行にもふれて、西行について以下のように綴っています。(参考 3)
彼の歌は成熟するにつれて、いよいよ平明な、親しみ易いものとなり、世の動き
に邪念なく随順した素朴な無名人達の嘆きを集めて純化した様なものになった。
私は、かつて、「反文芸的断章」 で、以下の文を綴りました。(参考 4)
最高・最良の技術は、「よみびと知らず」 という性質を宿している。
芸術にかぎらず、学問でも、宗教でも流派がありますが、たとえ、流派のなかであっても──そして、強烈な個性であっても──、後世に継承される説・作品というのは、かならず、記名を超越して、「よみびと知らず」 という大衆 (公衆) 性を帯びています。「代弁者 (We-attitude)」 としての性質を宿しています。そうでなければ、多くの人たちが、作品を口ずさみ継承するはずがない。
(参考 1) 「古典と伝統について」 (思想との対話 6)、講談社、98 ページ。
(参考 2) 「古典と伝統について」 (思想との対話 6)、講談社、110 ページ。
(参考 3) 「古典と伝統について」 (思想との対話 6)、講談社、119 ページ。
(参考 4) 本 ホームページ 「反文芸的断章」、2007年 1月16日。
(2008年 5月23日)