事業過程・管理過程を対象にして、コンピュータ のなかに なんらかの 「(それらの) モデル」 を作るとするならば──言い換えれば、われわれは、「現実的事態を、コンピュータ のなかに、いかにして記述できるか」 という問いに応えるために 「モデル」 を作るならば──、「モデル」 は、「個体と それらの関係」 として記述されるので、以下の ふたつの哲学の いずれを前提にするのかという悩ましい選択に向かい会うことになります。
(1) 実体主義 (個体が一次的で、関係は個体間で派生する、という考えかた)
(2) 関係主義 (関係が一次的で、個体は、関係のなかの変項である、という考えかた)
私は、単純に、実体主義と関係主義というふうに まとめましたが、「実体」 とか 「関係」 という概念は、哲学上、ギリシア 時代から現代に至るまで──古来、哲学上、「観念」 が主たる争点になっていましたが、20世紀初頭には、「観念」 が 「意味」 という概念に取って代わられて、現代では、「意味」 とか 「解釈」 が争点になっていますが──検討されてきた非常に難しい概念です。それらの概念を丁寧に学習するには、哲学史 (そして、20世紀初頭から、さらに、「数学基礎論」──あるいは、「数学の哲学」、ならびに、言語哲学) を歴史の歩みに沿って、重立った思想を、順々に学習しなければならないのですが、哲学を専門にしていない システム・エンジニア が それらの思想を、それぞれ学習して、かつ、思想史のなかで、それらの思想が後世に対して どのような影響を与えて、さらに、それらの思想の どの点が継承され改良されてきたかを辿るのは、辛い仕事です。ただ、およそ、「モデル」 という技術を作ろうとするひとは、その道を避けて通れないでしょうね。私の著作は、「高慢」 だと誹られることがあるそうですが、(上述した モデル の学習をしないで、) 「画法 (diagramming)」 を 「モデル」 というふうに言い立て、いっぱしに システム・エンジニア を装っているようなひとに対して、私は容赦しないで非難します──私の そういう態度が 「高慢」 であるならば、私にしてみれば、(「モデル」 を ちゃんと学習しないで、みずからの我流を 「モデル」 として言い立てて) システム・エンジニア を装っているほうが 「高慢」 だと思います。
さて、実体主義と関係主義は、それらのあいだの 「ズレ」──具体的に、技術上、現れる 「ズレ」──を、なかなか、理解しにくいでしょう。関係主義は、数学で使われているので、定式化されています──すなわち、「関係」 は、(ふたつの集合のあいだの) 「直積」 の部分集合である、と。そして、直積のなかで、たとえば、2項関係を前提にして、「関数」 f (x, y) を使えば、任意の x の値に対して、y の値が一意に付与されて、その 「関数 (あるいは、『関係』)」 が、現実的事態と対比して、指示関係を実現しているなら──カルナップ 氏の用語法でいえば、「(事実的な) F-真」 を実現しているなら──、構文論的にも意味論的にも 「正しい」 とされます。すなわち、「妥当な構成」 と 「真とされる値」 を実現した 「モデル」 とされます。こういう考えかたの前提になっている 「関係」 の一般式は、以下の式です。
R { s1 ∈ X1, s2 ∈ X2,・・・, sn ∈ Xn ∧ P (s1, s2,・・・, sn) }.
X1,・・・, Xn は、ZF の公理系でいえば、「セット」 概念の集合です。すなわち、いくつもの集合 (セット) を前提にして──ただし、それらの集合は 「空でない」 としますが──、それらの集合のなかから、それぞれ元を選んできて、「並べる」 関数があれば、それぞれの集合から選んできて構成された元の あつまり も集合 (整列集合) になる、ということです。この整列集合のことを 「タプル (tuple)」 と云います。
さて、この整列集合の前提になっている集合群に帰属する 「個体 (instance、あるいは occurrence)」 は、上述したように、あくまで、変項として扱われます。したがって、「個体」 が、たとえ、「主体」 であろうが 「事態」 であろうが、それらの 「個体」 が、なんらかの 「関係」 のなかで、関数式として記述することができます。その関係式が──そして、その関係式が、推論上、無矛盾で完全であるように、前提として導入された公理系が──「モデル」 ということです。
いっぽうで、もし、実体主義に対して、この関係式を適用すれば、関係主義とは、「ズレ」 が生じます。というのは、R (a, b) では──「個体 a は、個体 b に対して、関係 R にある」 というふうに読みますが──、個体 a と個体 b を、もし、「実体 (あるいは、もっと、限られた意味で、『主体』)」 というふうに考えれば、関係式は、個体が変項になるのではなくて、個体のあいだに関係が生じるという三項態的な考えかたになります──たとえば、「従業員」 と 「部門」 のあいだで、「配属」 という関係 (あるいは、事態) が生じている、と。ただし、関係主義では、この 「事態」 も、「個体」 として扱われていたことを思い起こしてください。そして、やっかいなことに、実体主義的な考えかたは、ZF の公理系のなかで、「対の公理」 を使えば──ふたつの集合 { a, b } を前提にして、ひとつの集合 S の存在を考えることができるし──、さらに、「置換公理」 を使えば、集合 S の 「性質 [ f (x) ]」 を考えることができます。もし、この考えかたを統一的に使って モデル を構成 (あるいは、「解釈」) するのであれば、「主体」 を一次的な データ として、ふたつの 「主体」 が構成する事態を ふたつの 「主体」 に対する 「関数」 として考えて、さらに、ふたつの事態のあいだに起こる関係は、第二階の ロジック を使う、というふうに考えることもできます。すなわち、「主体」 を sn として 「関係」 を Rn として記述すれば、実体主義的な考えかたでは、「事態」 は、たとえば、R1 { s1, s2 } や R2 { s1, s3 } として構成され──ただし、関係の性質は、基本的に、対称性を示しますが──、さらに、ふたつの 「事態」 のあいだの関係は、F (R1, R2) の関数として記述されます──非対称性を示します。
上述したように、実体主義的な考えかたと関係主義的な考えかたでは、関係式上、関係 R の技術的な扱いに 「ズレ」 が生じます。
ウィトゲンシュタイン 風に言えば、「世界は、成立していることがらの全体である (The world is all that is the case)」 ので(参考)、たとえ、対象の範囲 (domain、あるいは universe) を限ったとしても、その domain を記述する関係式は、ひとつです。すなわち、
R (c1, c2,・・・, cn).
そして、さらに、ウィトゲンシュタイン 風に言えば、「世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めではない (The world is the totality of facts, not of things)」。そして、ウィトゲンシュタイン 氏は、以下のように言っています。
(参考)
(1) 与えられたことがら、すなわち事実とは、いくつかの事態の成立にほかならぬ。
(What is the case--a fact--is the existence of states of affairs.)
(2) 事態は対象 (事物、物) の結合である。
(A stateof affairs (a state of things) is a combination of objects (things).)
(3) 事態の構成要素となりうるということは、物にとって本質的である。
(It is essential to things that they should be possible constituents of states
of affairs.)
もし、かれの意見が 「真」 であるならば──かれは、それらの意見を、一切、証明しないで述べているのですが──、ひとつの関係式のなかに、「主体」 と 「事態」 を混成するのは適切ではない、ということになります。ちなみに、かれは、「事態」 の成立・不成立を験証する やりかた (一般手続き) として、「真理値表」 を考案しました。
さて、以上の考えかた (実体主義と関係主義、そして ウィトゲンシュタイン 氏の考えかた) を、事業過程・管理過程を対象にして適用した際に、「個体」 に関して、悩ましい点が出てきます。その悩ましい点は、それぞれ、以下の点です。
(1) たとえ、実体主義を前提にしても、「個体」 のあいだに成立するはずの 「関係
(事態)」 が 「個体」 として扱われることがある。
(2) たとえ、関係主義を前提にしても、「個体」 のあいだには、整列集合 (直積集合)
が、かならずしも、成立しない。
実体主義上の問題点は、たとえば、「受注伝票」 に対して、受注番号 (個体指定子) を付与して、「受注」 という 「事態」 を管理対象 (主体と同列になるような個体) にしている、という点です。したがって、「モデル」 の関係文法を、(タイプ 理論風に言えば、) 階のちがう対象を同列に扱うことはできないでしょう──なぜなら、同じ階からの代入は、パラドックス を生じるから。ゆえに、「主体」 どうしの文法 R { s1, s2 } と、「事態」 どうしの文法 F (R1, R2) のほかに、「主体と事態のあいだに起こる」 関係文法 G { s1, R1 } を用意しなければならない、ということになります。「主体と事態のあいだに起こる」 関係文法のひとつとしては、ふたつの集合 (主体と事態) の包摂関係を使うというふうに考えることもできるでしょう。ただ、もし、実体主義的な考えかたに立って、関係式を使うのであれば、第二階で記述される 「事態」 を第一階に降ろして演算できる──第一階のなかでも演算できる──文法にすべきだと私は思います。
関係主義上の問題点は、関係の対称性・非対称性を考慮していないという点でしょう──なぜなら、たとえば、R対称性 {従業員a, 部門 b} と R非対称性 (受注x, 請求y) では、文法がちがうのだから、ひとつの 「関数」 を一律に適用できない、ということです。勿論、R対称性 に対して、たとえば、五十音順とか アルファベット 順に 「並べる」 関数を適用できますが、たとえ、関数を適用しても、「並び」 を変えても、「意味」 が変わらないので──「事態」 としての指示関係が変わらないので──、関数を使うことが a must である訳ではないでしょうね。
実体主義と関係主義の 「統合」 は、私が TM を作るときに最大に悩んだ点でした。特に、関係の対称性・非対称性を配慮しつつ、かつ、R {主体、事態} の文法を一般手続きとして示すのは非常に悩んだ点でした。実体主義と関係主義とを 「統合」 するために導入した やりかた が、「event (正確には、case)」 概念と 「対照表」 でした。そして、「対照表」 (および、「event (case)」 は、「真理値表」 として作用するようにしました──言い換えれば、文法に従って構成された文の 「真理条件」 を験証する構成表としました。ただし、タルスキー 氏が示した 「規約 T」 を自然言語に適用できるように、以下のような T-文に拡張してあります。
言明 p (対照表でしめされた構成) が真であるのは、時刻 t において、
事態 q と一致するとき、そのときに限る。
そして、私は、自然言語を対象にして、第一階の ロジック のなかで、「個体と関係」 に関して、TM の完全性を実現したと思っていたのですが、遺憾ながら、完全性を実現できなかった、、、。というのは、TM で構成した対象に対して、またまた、実体主義と関係主義が亡霊のごとく現れてきました。たとえば、「銀行 コード」 と 「支店 コード」 という個体指定子を与えて、対照表 「銀行 コード (R)、支店 コード (R)」 を構成して──ただし、この場合では、対照表は、「集合 オブジェクト」 ではなくて、「組 オブジェクト」 になる点に注意してください──、「F-真」 を験証すれば、「○○銀行の××支店を時刻△△において開設した」 という 「事態 (case)」 を言及する [ 「真」 である ] のですが、いっぽうで、この対照表は、「○○銀行××支店」 という個体を指示することもできます。すなわち、「事態 (event、あるいは case)」 として 「解釈」 しながらも、いっぽうで、「主体 (resource、あるいは subject)」 として 「解釈」 できるという──言い換えれば、「event」 とも 「resource」 とも判断できない──命題文になる、ということです。まさに、ゲーデル 氏の不完全性定理が示した例が起こりました。そのために、TM 上、現時点では、「解釈」 の制約・束縛として、以下の規則を導入しています。
対照表は、その 「性質」 として、日付の実 データ が存在するか、あるいは、
日付の存在を仮想したいとき、そのときに限り、「event (事態)」 として
「解釈」 する。
さて、TM では、「意味」 とか 「解釈」 という めんどうな概念を回避するために、「真」 概念 (「L-真」 および 「F-真」) を導入して、「モデル」 を整えてきたのですが、構成物 (対照表) が 「真」 であるにもかかわらず、[ 「F-真」 に関して、] 「解釈」 に頼らなければならない事態が起こったのは、どうしてかしら。
この点を、今後、丁寧に調べたいと思っています。
(参考)
日本語の翻訳文は、以下の書物から引用しました。
「論理哲学論考」、坂井秀寿 訳、法政大学出版局、1968年。
英語の翻訳文は、以下の書物から引用しました。
"TRACTATUS LOGICO-PHILOSOPHICUS", translated by D.F. Pears and
B.F. McGuinness, ROUTLEDGE, 1974 (First paperback edition).
(2008年 6月23日)