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Children are certain cares, but uncertain comforts.

 

 私は起床すると直ぐに パソコン に向かって文を綴りはじめて、ゆうがたまで、文を綴りながら考えごとをする日々が多いのですが、一日中、そういう生活をしていると、ときどき、強烈な虚無感・喪失感に襲われます。すなわち、「私なんぞ、この世にいなくてもいいのかもしれない、、、」 と。

 「考えること」 を職業にしている人たちは多いので──たとえば、数学者とか哲学者とか文学者とか──、私のような ふつうの システム・エンジニア が もったいぶって 「考えること」 を職業にしているとは言えないかもしれないのですが、「モデル」 を考えることが仕事であれば、数学や哲学を学習しなければならないし、しかも、数学や哲学を専門にしていない システム・エンジニア が それらを学習していれば、シロート が ただただ悪戦苦闘している滑稽さを免れない。数学者や哲学者にとって簡単なことでも、シロート の私が じぶんの腑に落ちるまで咀嚼するには そうとうな苦労をしています。しかし、そんな苦労は、頭の悪い私が払う対価であって、たとえ、苦労して学習しても、私が学習したことなど、学問の世界では、すでに当然のこととして存するにすぎない。

 すでに整えられた知識体系を学習するしかない状態、そして、なんら生産することができない状態が続いていれば──学習することが目的とされている学校での生活を除けば──、ひとりの社会人として虚無感しか感じられないというのは正常な感覚なのかもしれないけれど、そういう状態に どっぷりと浸かっている じぶんを無用の存在と思わざるを得ない、、、。

 本 ホームページ 「思想の花びら」 のなかで、かつて、以下の ことば (カーネギー 氏のことば) を引用しました。

    自分は有用の材であるとの自信ほど人にとって有益なものはあるまい。

 この ことば は、私自身を鼓舞するために引用したのですが、困ったことに、私は、じぶんを 「有用の材」 と思うほどの自信家ではない。
 「子は三界の首枷 (さんがいのくびかせ)」 という ことわざ がありますが、TM は 私にとって、まさに、その ことわざ どおりの子です。

 
 (2008年 8月16日)

 

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