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Without learning there is no knowing. |
デイヴィドソン 氏は、かれの著作 「真理と解釈」 に収められている第一論文で、以下の文を綴っています。(参考)なお、引用文に対して付けられている通し番号は、私 (佐藤正美) が、後々、私の意見を述べるときに使うために付与しました。
(1) そして、かれは、求められる理論として以下のような理論を描いています。
(2) そして、かれは、「文は単語から合成されたもの」 と見なす考えかたを 「楽観的な考えかた」 として以下のように非難しています。
(3) さらに、言語哲学が いままで取り組んできた 「意味論的解釈」 は ソリューション を与えていない、と かれは述べています。
(4) さて、(1) では、デイヴィドソン 氏は、「意味」 なる語が その使用法をもたないと述べています。もし、かれの説が正しければ、「『意味』 の意味」 を記述することができない──あるいは、「意味」 という語は、「解析」 上、回帰的になって無限後退 (あるいは、循環) に陥るということになるでしょうね。ここで 「解析」 とは、純粋に数学的な意味で私は使っています──すなわち、A → B1 →・・・ Bn というふうに、A が成り立つためには、B1 が前提とされ、B1 が成り立つためには以下同様に Bn まで延々と分割・細分が続くということです。この無限後退を断ち切るには、その鎖のなかの どこかで、実際の物 (あるいは、同意された最小単位の概念) を指示しなければならないでしょう。 そういう 「解析」 を前提にしなくても、「文」 が以下の 「T-文」 を満たせば、「『文』 の意味」 が明らかである、とみなしているのが (2) です。
言明 p が真であるのは、時刻 t において、事態 q と対応するとき、 すなわち、タルスキー 氏の示した 「真理条件」 を デイヴィドソン 氏は、自然言語に流用して、「意味」 を 「真」 概念に置換しています。この考えかたは、自然言語を使ううえで、言明の真実性を直截的に示してくれます。ただ、概念語に対して──たとえば、「愛は、美しい」 というような 「信念」 が入った概念的な文に対して──、「T-文」 を適用できないでしょうね。もし、適用するのならば、「x は、『愛は美しい』 と (時刻 t において) 言った」 という事態に対して適用できるのであって、「x は、『愛は美しい』 と (時刻 t において) 言った」 は真・偽を判断できるのですが、代入文 (引用文) の 「愛は、美しい」 に対して 「T-文」 を適用できないでしょうね。
(3) は、私がT字形 ER手法 (TM の前身) を作ったときに、見事に嵌った罠でした。当時、私は、「ひとつの複文は、いくつかの単文で構成されていて、単文を構成している単語 (主語および述語) の意味がわかれば、文 (単文および複文) の意味は単語の意味を合成して理解できる」 と思いこんでいました。コッド 関係 モデル に対して 「意味論を強く適用するために」 ウィトゲンシュタイン 氏の 「論理哲学論考」 を底本にしてT字形 ER手法を作ったのだから、「真理値表」 の テクニック を見習って 「真」 概念を重視する チャンス もあったのですが、私は、「複合命題と要素命題」 という概念のほうに引き摺られてしまって、主選言標準形が すべての 「真理」 を語る一般形だと思いこんでいました──言い換えれば、「真理値表」 を 「場合分け」 の検証表としてのみ使ったのでした。さらに、もっと悪い事態に陥ったのは、ウィトゲンシュタイン 氏が 「哲学探究」 で 「意味の対応説」 を否認したことを重視して、当時、私は 「真理条件」 をT字形 ER手法のなかに導入することなど一切考えていなかった。ただ、私は、不思議にも、「対照表」 の意味を問うときに、その性質として 「日付」 が帰属するかどうかを確認点にしていました──その理由は、たぶん、ZF の公理系のなかで、「対の公理」 と 「置換公理」 を強く意識していたか、あるいは、パース 氏の哲学を学習していて、2項関係が 3項態を作ることを意識していたのでしょう 「真」 概念を私に強く意識させたのは、カルナップ 氏の著作です。カルナップ 氏は、ウィトゲンシュタイン 氏の哲学と ゲーデル 氏 (および、タルスキー 氏) の哲学の はざまで悩んで、意味論を進めて、「真」 概念として、「(導出的な) L-真」 と 「(事実的な) F-真」 を導入して、いくつかの形式的言語を作りました。私が 「真」 概念を カルナップ 氏から学習した時点で、T字形 ER手法は TM へと変身しました。私は、ウィトゲンシュタイン 氏の後期哲学 (「意味の使用説」) を学習していたので、以下の 3つの概念が TM の意味論で中核として収斂してきました。
(a) 同意、規則 それらの意味論上の概念を問うためには、まず、「文法」 (文を作る規約) がなければならないことも改めて確認できました。ひとつずつの単語が現実的事態と対比して 「真」 を確認できないことを私は すでに意識していたので、私が組んだ手続きは以下の体系になりました。 同意 → L-真 → F-真. すなわち、事業過程・管理過程に関与している人たちのあいだで 「(意味が) 同意されて」 使われている語いを起点にして、関係文法に従って 「文」 を作り──「L-真」 を構成して──、その 「文」 の真を問う──「F-真」 を験証する、という手続きを 「TM」 として整えました。そういうふうに整えたあとで、デイヴィドソン 氏の著作を読んで、「F-真」 の験証として 「T-文」 を使うことを確信しました。 (4) について、私には意見を述べるほどの学識がないことを素直に認めます。デイヴィドソン 氏が そういうのだから そうなのかもしれない としか私には言えない。「すべての文の意味論的解釈 (意味) を与えるというのが意味論の中心的な課題である」 という点を (言語哲学の専門家でない) 私でも同意しますが、ただ、以下に示す文 [ 正確に言えば、『文』 になっていない項にすぎないのですが ]── TM の文法に従って作られた 「対照表」 { 銀行 コード (R)、支店 コード (R) }──に対して 「意味論的解釈」 を単純に与えられないという点を私は悩んでいます。
{ 銀行 コード、銀行名称、・・・ }. この 「対照表」 { 銀行 コード (R)、支店 コード (R) } は、このままであれば、「event」 とも 「resource」 とも 「解釈」 できます。すなわち、「しかじかの銀行の かくかくの支店は、(時刻 t において) 開設された」 という できごと として 「解釈」 することもできれば、「しかじかの銀行の かくかくの支店」 という 個体 (主体) を指示する (正確には、言及する) とも 「解釈」 できます。そして、いずれの 「解釈」 が正しいのかは、TM のなかで判断できない、、、。そのために、TM は、正規の文法のほかに、以下の 「『解釈』 の制約・束縛」 を置いています。
対照表は、その性質として 「日付」 の実 データ が帰属するか、 この制約・束縛が 「意味論的解釈」 の文法になるのかどうか、、、いまの私には判断できない。 |
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