「デイヴィドソン 氏が 『規約 T』 を擁護している」 ことを私は強調しすぎているのかもしれない。もし、私の文を読んで、デイヴィドソン 氏が示した言語哲学において 「第一原理」 は 「規約 T」 であると思われるとしたら、私は 「『強調』 の虚偽」 に陥っていることになりますし、読者に そういう虚偽を語るのは私の本意ではない。というのは、かれは、「真理と解釈」 の第三論文 「規約 T の擁護」 で以下のように述べているから。
(1)
最後に、われわれが意味論に要請すべきことのすべては、それが 「規約 T」
という基準を満たすことだ、というのは私の テーゼ ではない。私が提案したい
のは、「規約 T」 を満足する諸理論は しばしば考えられているよりも はるか
に大きな説明能力をもつ、ということである。だが、さらに別の規準に基づいて
それらの理論の中で選別を行なうということはあるかもしれないし、もちろん、
[ 理論の ] 外に在って、われわれが知りたいと思っている事柄は数多く存在
する。
デイヴィドソン 氏は、「規約 T」 を擁護する理由として──「規約 T」 の中心的な利点として──「重要だが理解しにくい問題を目的が はっきりしている課題で置き換えるということ」 を挙げています。ここで云う 「問題」 「課題」 とは、どういうことかを かれは続く文のなかで説明しています。(2)
元来の問題は混同されていたのではなく、単に曖昧であったにすぎない。
それは次のような問題であった。ある文 (もしくは発話、あるいは言明)
が真であるとは、いかなることか。混乱の恐れが生ずるのは、その問題が
文を真にするのは何か、という問題に変形されたときである。これに引き
続いて、真理は全体としての文と ある存在者、多分事実か事態、の間の
関係によって説明されねばならない、ということを この問題が示唆して
いると受け取られるとき、真の困難が現れてくる。「規約 T」 は、この
引き続いて定式化された問いを招くことなしに、元の問題を いかに問う
べきか、を示すのである。T-文の形式によって すでに暗示されているのは、
真理という性質をもつ文に弁別的に対応している諸存在者を発見する必要
なしに、ひとつの理論によって真理という性質を特徴づけることが可能だ
ということである。
この文を読んだとき、私は、(ウィトゲンシュタイン 氏の哲学に対して後世の哲学者たちが評した) 「治癒の哲学」 という疎通語を思い浮かべました──そして、ウィトゲンシュタイン 氏が みずから綴った 「蝿に蝿取り壺から脱出する道を示してやること」 という文を思い浮かべました (「哲学探究」 §309)。実際、「規約 T」 は私にとって そういうふうに作用しました。
「規約 T」 は、「意味の対応説」 の典型的な規則としてみなされていますが、寧ろ、「意味の対応説」 と 「意味の使用説」 との結節点になると私は判断しています。「解析」(3) の逆路 (あるいは、逆関数) が 「構成」 であるというふうに考えると、「構成」 では、「(事実的な) F-真」 を開始点にして、順次、「(導出的な) L-真」 を実現するようになりますが、はたして、開始点で、最小の意味単位たる項の 「F-真」 を示すことができるのか は怪しいでしょうね。もし、そういう やりかた をとるのであれば、最小の意味単位である それぞれの項に対応する存在物が それぞれ有ると仮定しなければならないでしょう──たとえば、「サイズ・コード」 を 「個体指定子 (entity-setter)」 にして 「サイズ (寸法)」 が存在すると仮定しなければならないでしょうね。しかし、「サイズ (寸法)」 は、「規約」 で構成される概念であって存在者ではない、と考えるのが ふつうではないでしょうか。その 「規約」 を単独に管理するために、個体指定子 (管理番号) を付与したのであって、その 「規約」 で構成される概念を存在者とみなしている訳でないでしょう。あるいは、「分類 コード」 を個体指定子にして 「分類」 を管理対象として認知しても、「分類」 を存在者とはみなさないでしょう。
したがって、もし、「規約」 で同意された語 (すなわち、項) を起点にするのであれば、そして、それらの語を使って 「文」 を構成するのであれば──すなわち、「L-真」 を構成するのであれば──、「F-真」 は、それらの 「文」 に対して最後に問われることになるでしょう。すなわち、「同意 → L-真 → F-真」 という手続きになるのですが、この手続きは、まず、「意味の使用説」 を前提にして単語 (項) を認知して、最後に、文 (項) に対して 「F-真」 を問う 「意味の対応説」 で締めるという手続きです。そして、少なくとも、事業過程・管理過程を対象 (domain) にして、現実的事態を コンピュータ のなかで構成する モデル (経験論的言語) であれば、こういう手続きにするのが effective でしょう。
(1) 「真理と解釈」、63 ページ、金子洋之 氏訳。
(2) 同、63-64 ページ、金子洋之 氏訳。
(3) 「解析」 とは、数学的論法の ひとつであって、証明する ことがら を A とすれば、「A → B1 → ・・・ → Bn」 というふうに、A が成立するためには、B1 が成立していなければならず、B1 が成立するためには、B2 が成立していなければならないことを示し、順次、分割・細分を繰り返して最終的に 「既知のことがら」 Bn に帰着させる手続きを云います。
したがって、「構成」 は、この路を逆に辿ります──すなわち、「既知の ことがら」 Bn を起点にして、順次、A に至るということです。
(2008年 9月 8日)