三島由紀夫 氏は、かれの著作 「小説家の休暇」 の中で、以下の文を綴っています。
叙事詩を読んで今日われわれのおどろくことは、そこに語られた
あらゆる行為が、少しも不可知論の影を帯びてゐないことである。
しかし戦ひであれ、犯罪であれ、人間がひとたび行為へ躍り込めば、
判断は単純化され、心は外側からもはっきり見えるほどに、簡素な
ものになることは、現代も古代もかはりがない。しかし近代社会は
行為の信仰を失つたから、たちまち人間の心は目に見えぬものに
なり、行為の惹き起こす結果たる事実は、不可知論に埋もれること
になつた。近代法律学の問題にするものは、犯行ではなくて、犯意
の有無である。犯罪ではなくて、犯罪構成要件である。
さすがに小説家の文は達意ですし、物を観る視点が鋭いですね。
私は システム・エンジニア として 「システム」 を構成する仕事に就いているので、どうしても、「システム」 の構成要件を第一義にします。すなわち、仕事上、「対象 (事物、すなわち個体)」 は、構成要件のなかで 「変項」 にすぎないという考えかたを私は前提にしています。現実的事態に対して なんらかの 「構成」 を考える科学であれば、たぶん、そういうふうに考えるのが前提でしょうね。
ただ、科学が実存する世界に対して どこまで適用できるのかという点については──たとえば、ひとの 「心 (感情とか、『意図する』 という意思など)」 に対して科学的な構成要件を適用できるのかどうかなどについては──様々な争点があるでしょうし、科学の適用のしかたについて数々の試行錯誤もあるでしょうね。もっとも、必要十分条件が 「傾向」 としか成立しない事態とか、あるいは、必要十分条件を考えることが前提とされない事態には、私は 「構成要件」 を考えないことにしています。そういう事態に対して科学のやりかたを適用して──必要十分条件を強いて構成して──、ものごとを明らかにしたかのように思っているひとに対して私は嫌悪感すら感じます。ただ、科学を適用しなければならない事態に対して、科学のやりかたを無視 (あるいは、疎かに) して個人的な感想を述べているひとを私は軽蔑します。
小説家は──少なくとも、三島由紀夫 氏のような第一級の小説家は── 「なにが文学 (あるいは、小説) でありえるか」 を鋭く意識して事態を観るので、「文学と科学」 の領海を侵犯しないのかもしれない。ただ、いわゆる 「文学青年」 のなかには、書物のなかに、なにがしかの 「人生観」 を読んで、それを類似の事態に対して敷衍して、まるで 人生を見通したかのように振る舞う輩 (やから) も多い。同じように、科学のやりかたを適用範囲を超えて使って、まるで ものごとの必要十分条件を明らかにしたかのように振る舞う輩も多い。そして、「文学と科学」 の領海を侵犯しているのであれば、「非科学的な ものごと を科学的に観る」 傾向が強いか 「科学的な ものごと を非科学的に観る」 傾向が強いかの いずれであっても、「適切な態度ではない」 という点では同値でしょうね。これは、態度の問題であって、いささかも思考力の問題ではない。思考力が争点になるのは、態度の問題が取り除かれたあとのことです。
(2009年 1月 1日)