極狭い研究会以外には、私は、ほとんど コンピュータ 業界の人たちと接しないで生きていますが、こういう生活は、なにも、私が厭世家であるからではなくて、モデル の研究が忙しくなって、さて忙しくなってみると、べつに同業者たちと顔を合わせなくても生きていられることがわかったからです。そもそも、研究とは、孤独と閑暇のなかでおこなわれるのであって、孤独も暇もないのであれば研究を続けられる訳がない。
私のように フリーランス に近い状態で仕事をするには、仕事を獲得するために世間に対して私の存在を訴求しなければならないので、ときどき、セミナー の講師をやったり、たまに、マスコミ に寄稿したりしなければならないのですが、それらと歩調を合わせながら、しかも、研究を続けるために、じぶん独自の生活を整えなければならない。でも、こういう二重生活の調整は、口で言うほど簡単ではなく、独自の生活を整えたときには、世間から忘れ去られて、「過去の人」 になりかねない──研究に没頭している最中でも、そういう恐怖感が、たまに、私を襲ってきます。
私は学者 (theoretician) ではなくて実務家 (practitioner) なので、モデル の研究は当然ながら仕事 (事業分析、データベース 設計) に役立てるためにやっているのであって、もし、研究を怠れば仕事の質を高めることができないでしょうね。どうしたら、一日のなかで、できるだけ多くの研究時間をとることができるかということばかりを私は考えてきました。というのは、世間で多数の人たちがやっていることと同じことを私がやっていたら、なんら組織の後ろ盾がない私には存在理由が無くなってしまうから。したがって、私は、つねに、ほかの人たちの前を走らなければならない──あるいは、他の人たちがやっていないことをやらなければならない──という職掌を負っています。研究を継続して、なんらかの新しい成果を、2年あるいは 3年に一度の頻度で提示できなければ、世間から忘れ去られてしまうでしょう。この点に フリーランス の逆説があるようです。すなわち、孤独・暇を努力して把持する理由は、世間から忘れ去られないようにするためだ、という逆説があるようです。私が じぶんの物にした孤独・暇は、実は仕事を獲るための抵当のごとき物かもしれない。
世阿弥は 「花」 という語を好んで使いましたが、かれの言う 「花」 は 「つねに、目新しいこと (感動を生む・興味を惹く)」 と同じだと思っていいでしょう。「花」 であるためには、つねに向上しようという気持ちをもって精進するしかないでしょうね──そういう生きかたに疲れたならば舞台を降りるしかないでしょう。そうすれば、孤独・暇になるでしょうが、その孤独・暇は、上述した孤独・暇とは異質な所産でしょうね。
(2009年 2月 8日)