三島由紀夫氏が 「裸体と衣裳」 という エッセー のなかで綴っている以下の文を読んで、私は ドキッとしました。とういうのは、まるで、私の思いを見透かされているようなので。
さて、私はつらつら思ふのに、妙な気取を持つてゐる。私は自分が
小説家であるといふことを、テニス の選手や将棋の名人や アルピ
ニスト や、さういふものと同一視されたいとつねに思つてゐる。
私は概して技術的質問をされることを喜ぶ。小説家の友人同士との
ごく専門的話題を喜ぶ。誰も テニス の選手に人生相談をもちかける
ものはあるまいから、人生相談的な手紙をもらふと、そのお門ちがひ
にびっくりする。と云って私は、しんから自分の職業を テニス 選手
と同一視してゐるのではない。自分を一個の技術的人間と見做す
ことが私の気取なのである。(略)
かうした気取を分析してみれば、われわれ小説家の対社会的姿勢の
困難を避けようとする気取であることはすぐわかる。誰も スポーツ
選手に直接の社会的効用を要求するものはあるまい。スポーツ は
さういふものをすっぽり免れてゐる。一方、技術的人間は、技術の
性質如何にかかはらず、社会がよつて以て立つべき有機的要素
である。私はこの両方の得なところをわがものにしたい。疑ひやうの
ない技術人でありつつ、もろもろの社会的要請を免れてゐたい。
私は システム・エンジニア なので、そもそも、技術人なのですが、小説家が技術人でありたいという気持ちを共感できますし、技術人の私が スポーツ 観戦に熱中して スポーツ を好きな理由は、スポーツ が その性質として持っている 「あらかじめの シナリオ がない」 点や 「ひとつのことに集中する」 点を愛でているのではなくて、どうやら、三島由紀夫氏が吐露した 「疑ひやうのない技術人でありつつ、もろもろの社会的要請を免れてゐたい」 という点が正直な気持ちなのではないかと感じています。
(2009年 3月 1日)